赤尾敏, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=228720 / CC BY SA 3.0
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赤尾敏
赤尾 敏(あかお びん、1899年(明治32年)1月15日 - 1990年(平成2年)2月6日)は、日本の保守政治家、右翼活動家、衆議院議員、大日本愛国党初代総裁。
当初は社会主義者であったが、社会主義者として活動した後、1926年(昭和元年)に「天皇制社会主義」を理想として民族主義者に転向。1942年(昭和17年)には衆議院議員に当選した。1945年(昭和20年)の敗戦後、政治活動と講演活動を行い、1951年(昭和26年)親米反共を訴える大日本愛国党を創党した。特に銀座数寄屋橋などでの辻説法による過激な街頭演説で有名であった。
赤尾敏は1899年(明治32年)1月15日、愛知県名古屋市東区の金物商の息子として生まれた。彼の父親は家業である織物業を継がず、中小企業者になって金物・木炭販売、漁業、牧場などを手広く経営しており、自由主義者の知識人であった。
高等小学校に入学した時に、ある教師から「太閤秀吉はぞうり取りから天下を取った」と言われ、「俺だって勉強すれば総理大臣になれる」との夢を抱いたという。その時から彼は総理大臣を将来の希望とした。
旧制愛知第三中学(現在の愛知県立津島高等学校)に進学後、結核を患う。一時、彼は療養のため親元を離れ三宅島に移る。そこで小説家・武者小路実篤が唱えていた新しき村運動(原始共産制の実現を目指した社会運動)の実践を志し、実業家であった父から三宅島の牧場の経営を委ねられたという。貧困の中にあった島の孤児らを引き取って共同農場を運営した。農場では階級の別なく平等に作物が分配されるなどユートピア的な制度が用いられ、「新しき村」運動に賛意を示していた小説家・幸田露伴は赤尾の理想に共感して彼と面談している。またこの時に三宅村神着地区の旧名主浅沼家とも知り合い、後に日本社会党委員長となる浅沼稲次郎や大日本愛国党参与となる浅沼美智雄(稲次郎とは遠縁になる)らとの交流が始まった。赤尾は仲間らと共に理想社会を建設する事を夢見たが、農場は島の有力者らに騙し取られる。
苦い経験をしつつも東京の堺利彦、山川均、大杉栄、高畠素之のもとで社会主義を学び、堺や後の日本共産党書記長徳田球一らの支援を受け、名古屋で東海農民組合連合会や借家人同盟をつくり、左翼運動を行う。軍事教練の最中に天皇制への批判演説を行い身柄を拘束されたほか、地元財界の有力者に活動資金のカンパを要求したことが恐喝未遂 とされて逮捕された。その際、それまで同志だと思っていた「愛知通信」の記者から手のひらを返した様に批判されたことで、左翼運動に深く失望した赤尾は獄中で転向を決断する。
赤尾は獄中で仏教、儒教、キリスト教などの書物を読む。1926年、高畠素之の一派と交流を深め、メーデーに対抗するために「建国祭」を企画。「建国祭」は荒木貞夫や平沼騏一郎らの賛同を受け、全国で12万人を集め成功に終わる。赤尾は建国祭の常設機関として建国会を結成、会長に上杉慎吉、建国祭準備委員に高畠素之、書記長に高畠門下の津久井龍雄、顧問に頭山満と平沼騏一郎を迎え、永田秀次郎の援助も受け、理事長に就任する。会の具体的な行動の一つとしては、1933年ごろに紀元節にちなんで新しい節句「梅の節句」を考案、神武天皇を最上段に祭った人形まで作られたが、広まらなかった。
大東亜戦争に関しては、赤尾は「アメリカと戦争するのは共産主義ソ連の策略に乗るだけである」として対米戦争に激しく反対した。このため右翼でありながら、戦時下の政府の国策に敵対する反体制派であった。
1942年の翼賛選挙では東京6区から出馬し、大政翼賛会の推薦を受けない「非推薦候補」ながら当選を果たす。トップ当選であり、得票数は都内で2位、全国で4位だった。鳩山一郎、斎藤隆夫、中野正剛、笹川良一など他の非推薦議員と同様に翼賛政治会(翼政)に加入はしたが、1943年の第81通常議会では戦時刑事特別法改正案に抗議し委員を辞職(3月8日)。また続く第82臨時議会では施政方針演説に臨もうとした東條英機首相に対し議場退場処分(同年6月16日)、翼政を除名され、議会からも譴責の懲罰を下されるなど、右翼ながら筋を通した反体制派議員としての行動が目立った。なお、戦後国会内でのビラ撒きにより元国会議員待遇を剥奪されている(当選無効ではないので、国会議員であった事実...
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