大日本愛国党

大日本愛国党, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2556462 / CC BY SA 3.0

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#日本の政治的極右
#1951年設立の政党・政治団体
大日本愛国党(だいにっぽんあいこくとう)は、日本の政治団体。
日の丸革新主義、反共主義、愛国主義を掲げる。
党の初代総裁は赤尾敏。
GHQによる公職追放解除直後の昭和26年(1951年)に赤尾が結成。
各種選挙に積極的に候補者を立て、全て落選しているが、これは数寄屋橋で毎日行っていた街頭演説を公職選挙法の規定で途切れさせたくないという理由からだった。
政治腐敗・社会矛盾を糾弾し、市井の零細企業経営者から与党政治家まで幅広い支持者を得た。
窮乏の中で参議院議員通常選挙、東京都知事選挙への出馬を繰り返し、最大13万得票するなど健闘した。
赤尾は社会主義者からの転向である。
天皇親裁の下での生産手段の公有財産化を主張していた他、右翼思想の解釈に不敬発言があると評する者もいる。
戦前の衆議院議員時代から、反共主義、反ソビエトの立場から対アメリカ・イギリス開戦に反対し、反戦演説会を開くなどした。
北方領土問題については「南樺太・全千島列島が日本固有の領土である」と主張した。
「ファシスト」呼ばわりする者もあるが、赤尾の思想は民族純粋主義のような偏狭なものではなく、日本が完全独立を果たすまで、あくまで「繋ぎ」としての親英米路線を掲げていたとの見方もある。
自身を「泡沫候補」扱いするマスコミに、一貫して異を唱え続けた。
「泡沫」と書いた朝日新聞には抗議している。
また自宅兼党本部に明治天皇、釈迦牟尼尊、イエス・キリストの肖像画を掲げ、政見放送では自らを殉教者に準え、キリストの他に日蓮の名を挙げていた。
赤尾の死後、「敵」であった公安刑事の一部から「過激ではあったが至誠の人」という評価を得る。 浅沼稲次郎暗殺事件を起こした山口二矢、嶋中事件で知られる小森一孝はいずれも大日本愛国党に所属していたが、それぞれ事件直前に脱党している。
大日本愛国党は浅沼暗殺事件の翌月の1960年(昭和35年)11月、破壊活動防止法の調査対象団体に指定された。
大日本愛国党の書記長を務めた筆保泰禎(ふでやす ひろよし、1940年10月25日 – 2005年5月4日)は、複数回のテロ事件を起こした。
1972年3月22日、羽田空港から中国へ出発しようとしていた衆議院議員の藤山愛一郎に硫酸をかけようとして逮捕された。
更に1975年6月16日、日本武道館で行われた佐藤栄作元首相の国民葬の席において、当時の総理大臣だった三木武夫の顔を殴打する事件を起こした。
三木は倒れこんだものの大きな怪我は無く、国民葬は予定通り進められた。
なお、三木夫人の睦子は大日本愛国党総裁の赤尾敏とかねてからの知り合いで、事件後に睦子は赤尾敏に対して直接抗議をしたという。
三木には警視庁の警察官が護衛として配置されていたが、やや離れた場所にいた上に三木の進行方向ばかりに気を取られ、犯行への対応が遅れた。
このため警視庁は新たな要人警護の組織を作ることになり、3ヵ月後にセキュリティポリスが創設された。
一般市民に対しても抜群の知名度を誇った敏の死後、大日本愛国党は総本部系各団体と、中間派、それ以外の3派に、互いに関係を保ちつつ分派。
機関紙『愛国新聞』の発行人は敏の未亡人・赤尾ふみえに引き継がれたが、程なく休刊している。
現在の総本部代表は敏の長男・赤尾道彦であるが、道彦自身は街宣活動も選挙への候補者擁立も行っていない。
また文京区大塚にあった敏の自邸は取り壊され、現在は駐車場になっている(管理は実業部門の一つ、赤尾興産が行う)。
姪の赤尾由美はアルミニウム加工会社・アカオアルミを経営しつつ、2017年第48回衆議院議員総選挙に比例東京ブロックから日本のこころ公認で出馬するが、落選した。
その他 ^ 数寄屋橋での演説中「天皇を利用せねばならん。天皇でさえ庶民のためにある」と述べるなど。
^ 由井正臣ほか『日本近代人名辞典』(吉川弘文館、2001年) ^ 「憂国のドン・キホーテ」赤尾敏、山手書房、1983年、p.94 ^ 「右翼運動要覧 戦後編」日刊労働通信社、1976年、p.157 ^ 朝日新聞1972年3月22日夕刊11面

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