しながわのチカラ しながわの学童集団疎開

朗読「地蔵さんがランドセルを背負(しょ)っています。と聞けば本当かしら?と思
うでしょうね.誰のランドセルなの?誰がかけたの?とも、思うでしょう」

ナレーション「これは『ランドセルをしょったじぞうさん』この作者の言葉です。太平
洋戦争終戦間近の昭和20年夏、米軍機の襲撃で亡くなった品川区の子どもが残したランドセルを、小さな地蔵がひっそりと背負(しょ)い続けていました。この事実を知った古世古(こせこ)和子さんが、昭和55年に童話作品にしました」

古世子さん「戦争と言うのは身近でも子どもが死ぬということが起こる。(そうした悲劇を
二度と起こさないために)平和の願いを込めて本を書こうと決めた」
                 
ナレーション「昭和19年、子どもたちを安全な場所で生活させるという名目で、学童疎開
の政策が押し進められていました。品川区でも八王子多摩地区で、子どもたちが1年数ヶ月にわたる耐乏生活を余儀なくされました」

山根さん「夜さみしくなるのです。東京の方を見ながら『帰りたいなあ』と思いました」

ナレーション「ぎりぎりの中で生きていかざるをえなかった戦時中。戦争の記憶が薄れつ
つある今、笑顔の裏側にあった学童疎開の現実を見つめ直します」

ナレーション「伝え残さねばならない戦争体験。そのために山中小学校では疎開展示室を
設けています。この日卒業間近の6年生を前に話しをしているのは、学童疎開体験者の山
根高久さんです。機会あるごとに戦争体験を子どもたちに語り継いでいます」

山根さん「親元を離れているから家が恋しくなる。3年生でしたから布団にもぐり込んで泣
いたなんかしました」

ナレーション「戦争の激化に伴い昭和19年6月、政府は学童集団疎開を決定。この政策は空襲から子どもを守るというより、実は将来の兵士を守るという意味合いの方が強いものでした」

ナレーション「疎開とは、疎(まば)らに展開して敵を攻撃する。これは避難とは意味合いが違う攻撃的な言葉で、旧陸軍の用語でした。品川区では20校約6,200人が八王子、多摩地区に向かいました。対象となったのは3年以上6年生までの地方に 知り合いのない子どもたちでした」
              
ナレーション「昭和19年8月14日、山中国民学校310人は多摩地区に向かい、男女に分
かれ9箇所のお寺で生活を始めました。そこで子どもたちは、ホームシック、空腹、ノミやシラミに苦しめられ、爆撃など経験したことがない辛い体験を重ねていきました」

ナレーション「こちらは山根さんが3年生の時疎開した宝蔵院。3年と6年生、男子39人
が暮らしました」

山根さん「最初は遠足気分で気楽な感じで来ました。食べ物がないというのが一番の記憶
で、お腹だけは減っていました」

ナレーション「昭和20年5月25日、焼夷弾による空襲で寺が全焼。境内には頭部の光背(こ
うはい)が欠け修復のあとが残る石仏が残されていて、当時の被害を今に伝えています」

山根さん「(全員)ケガもなく無事に逃げた。私も不幸中の幸いで一歩手前に焼夷弾が落ちたので助かった。もしそうでなかったら私もこのお地蔵さんの様に傷ついてしまったでしょう。このお地蔵さんが守ってくれたと思います」   

ナレーション「一方原国民学校356人は9箇所に分かれ、その疎開先は八王子周辺。隣保
館では3年から6年生までの男女29人が生活を共にしていました」 

ナレーション「あの日、昭和20年7月8日、よく晴れた暑い夏の日」

「普段は民間施設を標的にしない米軍戦闘機がいきなり隣保館を襲撃・・・そしてひとり
の児童が銃撃され即死・・・。亡くなったのは4年生の神尾明治君でした」

北川さん「(神尾君の)肩の辺りから弾が当って、血が下駄箱や戸に飛び散り流れ落ちて、手のつけようがないという状態でしたね」

ナレーション「しかし少年の死は長い間、人々の話題にのぼることはありませんでした。
この子どもの死を追い続けたのが、古世古和子さんです。教員でもあった古世古さんは、子どもたちの苦難を時の彼方に埋(うず)めさせてはならないと常々考えていました。昭和45年、古世古さんは八王子の学校関係者の調査で、初めて男の子が銃撃で死亡したことを知ることになります」

古世古さん「安全のために疎開しているわけでしょ。(少年が銃撃され死亡したことは)本
当に胸が痛いという感じでした」
     
ナレーション「この時点で判明していたのは学校名だけ。亡くなった子の詳細は戦時の混
乱の闇に紛れて謎のままでした。そこで古世古さんは調査を引き継ぎますが、少年の特
定に辿りつけない日々が過ぎていきます」

ナレーション「隣保館のすぐ近くにある泉。ここは調査の疲れを癒した場所でした。数年
たったある日、佇んだ古世古さんに作品のアイデアが浮かんできました」

古世古さん「この泉は作品が生まれてくる源でした。いつも疎開学童の子どもがこの泉を
取り巻いて、東の方を向いて『おはようございます。父さんお母さん今日一日頑張ります』と並んで挨拶していた、その情景が浮かんできたのです」

ナレーション「昭和54年出版された『家出ねこのなぞ』。これは疎開児童の世話をしてい
たおばあさんが、戦闘機の銃撃で亡くなった子どもの供養を続けているという物語。この作品の出版で長年の疑問を解く糸口が見え始めたのです。それは隣保館のすぐ隣りにあるお寺の住職からの電話でした」

古世古さん「実は相即寺の地蔵堂の150体ある地蔵の1体が『家出ねこのなぞ』の中で機
銃掃射で死んだ子ども(作品の中ではケンちゃん)のランドセルを背負っていますよ、と連絡してきた」

ナレーション「直ちに相即寺に向かった古世古さんに住職は、亡くなった子の母親がわが
子に顔が似ている地蔵に、子どもが残したランドセルを背負わせたという話を伝えました」

ナレーション「このエピソードが新聞報道で大きな反響を呼び、名前、学年、命日が次々と判明していきます」

古世古さん「やっと見つけたという気持ちと、本当に平和でないといけない、こんな風に
子どもが死ぬのはかなわないと思いました」

朗読「『小さな子の命までも、なぜ・・・』お母さんは地蔵さんの背中にランドセルをかけ、
肩を抱いた。『肩ひもはね、しっかり直したわ。もうちぎれっこない・・・』地蔵さんはそれから35年たった今も、 黙ってケンジのランドセルを背負っている」

ナレーション「昭和55年に『ランドセルをしょったをじぞうさん』を「家出ねこのなぞ」(昭和54年刊)刊行、古世古さんは戦後50年目の平成7年には『学童疎開三部作』を完成させました」

ナレーション「神尾明治君の命日のこの日、(平成25年7月8日撮影) 地蔵堂に古世古
さんの姿が見られます」

古世古さん「『死にたくなかったよ』と言っている様に聞こえました。その子どもの声とお
母さんの気持ちを全国の子どもにぜひ伝えたいと、お参りして改めて思いました」

ナレーション「終戦を迎え品川区では、各学校ごとに疎開地からの引き揚げを始めました。
そして最後の引き揚げが完了したのは昭和21年3月のことでした」

ナレーション「学童集団疎開は将来の兵士を守るという目的で、生命の尊厳とは無縁の政策でした。笑顔に隠された厳しい現実を体験した疎開児童は戦後68年目に、改めて次のメッセージを投げかけます」

福室さん「絶対に戦争はしてはいけない。どんな国でもね」

ナレーション「戦争を二度と引き起さないためにも、私たちは真剣に、学童疎開体験者た
ちの言葉に耳を傾なければならない」

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