ロシアの経済, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2263896 / CC BY SA 3.0
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ロシアの経済(ロシアのけいざい)は国内総生産(GDP)で世界第10位、購買力平価換算では世界第6位の規模を有する。
ロシア連邦は豊富な石油、天然ガス、石炭、貴金属資源を有し、世界有数の穀物生産・輸出国でもある。
1991年のソビエト連邦の崩壊後、ロシアの経済はソ連時代の社会主義に基づく中央計画経済から、より市場機能を重視した経済への移行という大きな変化を経験した。
1990年代にはエネルギー部門及び軍事関連部門以外の多くの国営企業が民営化されたが、2010年代後半にあってもGDPの約6割を国営企業が、融資の約7割を国営銀行が担う。
この急激な民営化移行の過程において「株式担保融資」政策により国営企業株の多くが政界と密接な関わりをもつ寡頭資本家・新興財閥(オリガルヒ)の手に渡るなどして国営企業の寡占化が進んだ。
なおロシアにおける財産権の保護は未だ不十分であり、民間部門は依然政府の強い影響下にある。
輸出の6割以上を原油や天然ガスなどの鉱物資源に頼っているため、資源の値段が世界的に高騰する時は好景気、下落すると困窮するという図式となっている。
ロシアの経済・エネルギー関連年表 ソ連末期のロシア経済には「マクロ経済の安定化」と「経済システムの再構築(中央計画経済から市場主義経済システムへの移行)」という二つの課題があった。
マクロ安定化のためには、物価と為替相場を安定させ経済成長を促す財政政策や通貨政策を実行する必要があり、経済システム再構築のためには、効率的な経済活動に欠かせない銀行や私有財産制度、商法などを整備する必要があった。
国内の市場を海外取引や海外投資に開放してロシア経済と世界経済をつなげることで二つの課題達成が促進されるはずであったが、ゴルバチョフ政権はこの取り組みに失敗した。
ソビエト連邦の崩壊後、エリツィン政権もマクロ安定化と経済再構築の問題に取り組み始めたが1996年半ばロシア経済は混乱に陥った。
1991年のソ連崩壊後、ロシアは市場経済を発展させ着実な経済成長を実現しようと試みていた。
1991年10月、エリツィン大統領は、アメリカとIMFの勧めに従い、「ショック療法(英語版記事)」によって市場重視の抜本的な経済改革を行うと宣言した が、この政策は結果的にロシア経済を破綻させ、貧困層が数百万人規模に拡大し、官僚の汚職や犯罪件数が増加するといった事態を招いた。
また、ソ連時代の価格統制を撤廃したことによりハイパーインフレ(英語版記事)が起こり、その後1998年にはロシア財政危機が発生した。
このとき、ソ連解体当時のソ連の人口の半分程に過ぎないロシア連邦が、ソ連の法的人格を相続して外貨負債を肩代わりしていたことも財政上負担となっていた。
1995年財政赤字の補填のために政府が行った「株式担保融資」により多くの国営企業が株式を担保にオリガルヒ系銀行から融資を受け、結果国営企業の発行した株式はオリガルヒ、ノーメンクラトゥーラのメンバーもしくは犯罪組織のボスの手に渡った。
例えばソ連時代の工場長は、工場が民営化されるとそのまま企業のオーナーとなることがよくあった。
また当時暴力的犯罪組織が暗殺や恐喝などの手法で邪魔者を排除し国営企業を乗っ取ることもあり、政府役人の汚職も日常茶飯事となっていた。
さらに企業・政府内で要職につく個人を裕福にするために常軌を逸した財政操作が行われた。
こうした人々は莫大な資産を現金で所有したり、海外の口座に資本逃避させるなどしていた。
いわゆる「企業乗っ取り屋(英語版記事)」と呼ばれたアンドレイ・ヴォルギン(Andrei Volgin)は、90年代半ばまでこうした腐敗した企業に対する買収を行っていたとされている。
1996年の大統領選挙で新興財閥の支持を受けたエリツィン大統領は、大企業民営化の際株式を内部関係者に不当な低価格 で引き渡したとされている。
こうした悪名高いオリガルヒ達は、ロシアの一般市民からは「泥棒」とみなされながらも、莫大な富を背景に政治に大きな影響力を及ぼした。
ロシア国庫借入金推移(1999年-2006年) こうした政治・経済状況下、ソ連型計画経済から自由市場経済への移行は困難を極める中、国家の歳入増を狙った急進的な財政改革と財政赤字補填策が一因となり1998年8月ロシア金融危機が発生した。
当時ロシアの主要輸出(外貨獲得)品目である石油・鉱物資源の価格が低迷し、1997年のアジア通貨危機で投資家が新興市場への不信感を抱いていたことも問題を悪化させた。
結果、ルーブルの...
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