デバルツェボの戦い, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3706020 / CC BY SA 3.0
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デバルツェボの戦い(英:Battle of Debaltseve)とは、ウクライナのドンバス地域での内戦中の2015年1月14日から2月20日までの間、ドネツク人民共和国 (DPR)の分離主義勢力がドネツィク州のデバルツェボ市の再奪回を試みた戦いである。
2015年2月18日にウクライナ軍が撤退し、分離主義勢力が勝利した。
デバルツェボが争われた理由は、同地が道路と鉄道の交差する要衝で、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国 (LPR)を結ぶ連絡線としての価値があったからである。
デバルツェボは2014年ウクライナ騒乱の余波でウクライナ東部と南部にわたる広範囲で起きた暴動の最中の2014年4月に親露派の分離主義者が占拠した。
ウクライナ軍は2014年7月28日に都市の奪還に成功し、2015年1月まで強固に維持していた。
2014年9月5日に停戦合意のミンスク協定が締結されたが、その後デバルツェボ周辺で断続的な違反行為が起きていた。
2015年1月に数千人のウクライナ軍がデバルツェボに駐留していた。
都市は重要な鉄道と道路のジャンクションであり、DPRとLPRの領域に挟まれるウクライナ領土の「くさび」または「ポケット」(孤立地帯)である。
この時までに大半の住民は都市を離れており、店は閉店し、学校は放棄され、家屋は損傷していた。
断続的な都市への砲撃は2015年1月に過激化する数カ月前から常態化していた。
1月14日、分離派軍は、偵察ドローン、特殊部隊及び私服部隊によってウクライナ軍陣地の位置を標定し、BM-21及びタルナード (MLRS)で砲撃した。
1月17日から1月20日まで激しい砲撃が行われた。
1月22日、DPR軍はデバルツェボ周辺地域のウクライナ軍陣地を攻撃するとももに、市内の電気、水道、暖房を遮断した。
激しい砲撃が翌日まで続いた一方でウクライナ軍は都市の陣地を維持し続けた 。
戦闘中の砲撃が無人の校舎に命中した。
報復のためウクライナ軍は都市郊外の分離派の拠点へ砲撃を開始した。
翌日にDPRは3方面をDPRとLPRが支配する領域に囲まれているデバルツェボを奪還すると誓った。
1月24日、報道によれば、都市近郊のウクライナの検問所がDPRの武装勢力直接攻撃を受けた。
1月25日、DPR軍はにデバルツェボ近郊の別のウクライナの検問所を攻撃したが、撃退された。
翌日にもそのような攻撃は継続し、デバルツェボの周囲で激しい戦闘が起きた。
都市の住民はロイターに対し、デバルツェボはほぼ完全に分離派の武装勢力に包囲されており、ウクライナ軍は絶え間ない攻撃にも関わらず何とか防衛していると語った。
デバルツェボからアルテーミウシクに通じるハイウェイ、広大なステップに囲まれている 1月27日、分離派はホールリウカ方面からデバルツェボへの侵入を試みたが、撃退された。
翌日にはDPRの指揮官がDPR軍が都市に通じるハイウェイを占領し、都市をほぼ完全に包囲したと語った。
1月28日、ウクライナは民間人をデバルツェボから北西50kmの位置にあるアーテミヴスク市に避難させた。
1月29日、ウクライナの国会議員Dmytro Tymchukは分離派勢力がデバルツェボ攻勢の「縮小」を余儀なくされたと語った。
同氏によれば、ウクライナ支配地域から政府軍を排除しようとしていた分離派は政府軍による砲撃で重大な損害を受けたとした。
BBCニュースは分離派勢力がこの砲撃を受けている様子を撮影した映像を公開した。
砲撃にも関わらず分離派はデバルツェボの西13kmに位置しDPRが支配するホールリウカへのハイウェイ上にある町「Vuhlehirsk」を占領した。
分離派はウクライナの防衛線を突破し、政府の検問所を越え町に侵入し、その後中心部まで侵攻した。
Vuhlehirskの政府軍の兵士を救援するために増援が送られた。
AP通信は町の失陥でウクライナ軍によるデバルツェボ防衛が大幅に困難になったと報じた。
一方で、政府軍はデバルツェボ本土の民間人3人が反乱軍による「継続的な」砲撃で死亡したと述べた。
1月30日、砲弾がバスやKyibishevskiy地区の文化センター(人道援助物資配給所)に直撃した。
BBCによれば、市内にはウクライナ軍と共に多くの民間人が取り残された。
一部はアルテーミウシク(デバルツェボのポケットへの入り…
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