出典:EPGの番組情報
徹子の部屋 鈴木ヤスシ[字]
~“恩師”渥美清と“親友”アラン・ドロンとの日々~鈴木ヤスシさんが今日のゲストです。
◇ゲスト
昭和のロカビリーブームに『ジェニ・ジェニ』を歌って一世を風靡した鈴木ヤスシさんがゲスト。
◇番組内容
高校時代に渥美清さんの楽屋を訪れ「押しかけ付き人」になった鈴木さん。それまで一匹狼で弟子やマネージャーがいなかった渥美さんとの不思議な師弟関係を語る。また、1963年に来日したフランスの大人気俳優アラン・ドロンと意気投合!滞在中はほぼ毎日一緒にいたという2人の関係は、当時の芸能界であっという間に広まった。美空ひばりさんは鈴木さんを見かけるたびに「ヤスシ!ドロンの話をしてよ!」とおねだりしたという。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
♬~(鈴木)「Jenny Jenny Jenny」
(黒柳)昭和30年代の
ロカビリー全盛期に
司会も歌も俳優もこなす
マルチタレントとして
活躍なさった鈴木ヤスシさんです。
付き人をしていらした
恩師の渥美清さんへの思い出や
フランスの大人気俳優
アラン・ドロンとのお話など
色々 伺います。
どうも しばらくでございました。
どうぞ よろしくお願い致します。
1941年の東京生まれの80歳。
大学時代にロカビリーバンド
ダンディーウェストを結成し
ロカビリー全盛期に活躍。
ジャズ喫茶に出演してる時に
スカウトされて
テレビの司会に抜擢され
人気者になって
80歳におなりになった今も
全国各地のイベントから
司会を依頼されたりして
行ってらっしゃる。
司会やって
まだ ロカビリー歌って…。
ロカビリーも
歌ってらっしゃるの? 今でも。
まだ… やります。
あっ そうですか。
『ジェニ・ジェニ』で…。
『ジェニ・ジェニ』で。
「Jenny Jenny」言ってれば
いいんですから。
「Jenny Jenny」… そうですね。
最初に覚えた曲も
『ジェニ・ジェニ』なんですよ。
「Jenny Jenny」というのが…
それが ちょっと 今 聴こえた…。
この写真の頃ですかね。
この『ジェニ・ジェニ』っていう…。
はい そうです。
♬~「Jenny Jenny oh!
Jenny Jenny」
♬~「You know that I Love you
We could live so happily」
♬~「Jenny Jenny oh!
Jenny Jenny」
♬~「Spinny Spinny Spinny
激しいリズムだぜ」
♬~「Spinny Spinny oh!
Spinny Spinny」
♬~「Jenny Jenny Jenny」
僕が大学に入って
ロカビリーブームってなって
各大学で
ダンスパーティーっていうのが
色々 流行ってたんです。
そのバンドに
しゃべりは大丈夫だろうから
司会をやってくれと。
で 司会を…
いいですよっていう事で
それで 司会をやった。
ところが 司会だけっていうのは
なんともモテないで
ただ 曲も聴いて 「はい
それでは どうぞ」って言って
それだけなんですね。
で 歌手 何人かいて
歌ってまして
みんな キャーキャー言って
モテてたんで
バンドマスターに
「なんか 俺も1曲 歌いてえな」
「モテたいしさ」
っていうような事で。
そしたら 考えてて 「そうだ」。
「じゃあね
『ジェニ・ジェニ』っていうの」。
「この曲 最初から おしまいまで
“Jenny Jenny Jenny Jenny”
言ってりゃあね いいから」
っていうんで。
それで 1曲 覚えたのが
『ジェニ・ジェニ』だったんです。
あっ なるほどね。
それで だから
1ステージ…
それしか知りませんから
一番最初に
『ジェニ・ジェニ』を歌って。
それから 最後の方に
アンコールが来ましたので
また 『ジェニ・ジェニ』を…
2回 3回って
1ステージで歌いました。
同じ歌だけ?
はい そうです。 それで 欲が出て
だんだん だんだん
色んな違う曲を
覚えるようになったんですね。
まあ そしたらば
モテたというか…。
モテるっていうのも
ちょっと 違うんですけど。
「握手してくれますか?」とか
「写真 一緒に」とか
「これ プレゼントです。
使ってください」とか
そういうふうに… 環境になって
心の中では
しめしめという感じでした。
なるほどね。
でも 実は高校時代から
渥美清さんの付き人を
していらして。
テレビの演技を見て
弟子入りを決意して
直談判をなすったんですって。
そうです。
その頃 まだ 渥美清っていっても
そう全国的じゃなくて
ちょい役っていうか
1つのドラマに
1シーンか2シーン…
それしか出てない役なんで。
ちょうど ある局の
『轟先生』っていう番組。
それをやってるところに
僕が押しかけていきまして。
まだ
高校 入りたての頃でしたから。
それで なんとか 付き人に…
弟子にしてくれという事で。
今… これがそうなんです。
ああー これね。
あんまり
一緒の写真がないんですけど。
ただ 僕は名刺…
プロデューサーや
ディレクターと会うと
「坊や」って言って
「はい」って言って…。
ああ それを渡す。
ええ。 それも たくさん…。
その頃 プロダクションに
入ってませんでしたので
渥美清先生は。
それで あと もう一つは
黒い このくらいのバッグ…
バッグを首から僕は提げて
その中には薬が…。
元々 渥美先生は大病を…
肺の方をしましたので。
そういう経験者なので
色んな 予備薬っていうか
予防薬とか 色々 入ってます。
その薬の袋を こう提げて。
それで あと 一番大変だったのは
背中に大きく このくらいの傷が…
手術の痕があるんで
それを人様に見られるのが
嫌なんで
着替えの時は衣装部屋の
いつも 隅っこの方へ行きまして。
それを周りの人に見せないように
パッと僕が掛けてって。
これは自慢じゃないですけど
上手だったんです。
僕が それで…
そういうような事しかないですね。
でもね あの頃
みんなでワイワイしてた頃は
楽しかったですよね。
そうですね。
『徹子の部屋』にも
一度だけ出てくださったんで。
なかなか 自分の普段の…
なんていうのかね。
面白いだろうと
みんなが思うだろうから
そういうふうに思われるのも
嫌だっていうような
難しいところがあって…。
『徹子の部屋』にも
来てくださったんですけど。
ちょっと 渥美さんの
見て頂けますか?
はい。
「車… あっ 車寅次郎とは…」
「偶然!」
「ハハハハ…」
「また すぐ結びつけようとする」
「嵐寛寿郎さんみたいな
“偶然!”という…」
「あなた 小さい時」
「漠然として ただ…」
っていう事なのね」
「まあ そういうのに憧れてね」
「フフ」
「そうですね。 もう やっぱり…」
「なんていうんですか? ただ…」
ああー ねえ。
懐かしい。
懐かしいですね。
ねえ。 懐かしいですよね。
退屈になると 徹子さんのところに
お電話 突然したりとかって…
じゃなかったかなと思います。
そんな感じです。 そうそう。
その頃 「チャック チャック」って
言ってまして
「チャックのとこ 電話した」とか
なんか 言ってました。
なんか 渥美さんには
よく本を買わされに…。
はい。
普通 控室に入ってますと…
時間待ちしてると
例えば 隣の部屋へ…
出演が一緒の方のとこへ
雑談しに行ったりとかしますけど
そんな事はしないで
いつも ゴローンと横になってて。
で 僕は そばにいて。
スタジオに入ってきた
すぐさまですね
大体 僕に
新聞の切り抜きなどを持ってきて
「ここに書いてある この本と
この本と」って言って
大体 1回に6冊ぐらい
本を選んで。
新書ですね 新しく出た。
それで 僕が
その新聞のあれを持って
本屋さんへ買いに行きました。
それで 自分は 休憩時間は
よく… 読書家でした。
それで 本を読んで
「ああー こんな役
俺 やったら面白えだろうな」
とかって言って。
すごく色んな役を
やりたいっていうような
そんなのが印象に残ってますね。
あなたが司会を誘われた時
渥美さんに
相談なすったんですって?
はい。
「こういう話があるんだけど
どうでしょうか?」って言ったら
「それは やれ」と。
「人間には3回
チャンスっていうのがあるから
その司会っていうのは
お前にとって…
坊やにとって それは
1回目のチャンスだよ」って。
「あと2回 3回は
これから また来るだろうけど」。
「だから やりなさい」って言って
お尻をたたかれたというか…。
バンド時代から
「しゃべりがうまいから
お前は司会だ」と言われて
素人オーディション番組の
先駆けに出てらした。
そうですね。
オーディション番組で
『ジャズ・トーナメント』とか
『ホイホイ・ミュージック・スクール』とか。
あっ これね。
ええ。 司会やってる時に…。
木の実ナナさんなんかと…。
これは『ホイホイ・ミュージック・スクール』ですね。
はい そうです。
これで この番組…
『ホイホイ・ミュージック・スクール』からは
ドリフターズとか
それから
あおい輝彦さんなんかがいた
ジャニーズという…
初代のジャニーズですね。
三田明さん 布施明さん
芹洋子さん
そういう方々が
出身者っていう事ですかね。
素人から来て。
ドリフターズは違いましたけど。
なるほど。
なんか 渥美清さんとの写真が
あるとか言ってたけども…。
渥美清さん…。
あっ これはですね
僕が第1回の
リサイタルっていうか
ファンの集いをやった時に
仕事で来られない
予定だったんですが
来てくださいまして
花束を持って来て…。
あっ これ 渥美さん。
はい。
それで
もう 僕は感激して
涙したっていうか
泣いてしまいました。
あっ そうですか。
はい。
その時のパンフレットに
書いてくださった
祝辞というのが…
ちょっと それ お読みします。
はい。
その時のパンフレットに
渥美さんが書いてくださった
文章だそうです。
「ヤスシ君
君が金ボタンの学生服を着て
小雨降るテレビスタジオへ
独りぼっちで
僕を訪ねてきてくれたのは
つい まだ
この間のような気がする」
「あの時 それでは友達として
2人で勉強していこうよと
誓い合った僕たち」
「お互いに無駄ではなかったね」
「少しずつでも実っていった
心の根性という明かりを
いつまでも温めていこうよ」
これが そうですか?
そうですね。
今 聞いても
本当に ありがたいですね。
そうですよね。 涙が出ちゃう。
なんか 毎年
お墓参りは欠かさないで…。
8月の4日が命日なので
欠かした事なく
お墓参りに行ってます。
僕の次の弟子というか…。
あなたは 『若い季節』には
出てらっしゃらなかったの?
はい。 『若い季節』 レギュラーで
出演させて頂きまして。
役柄は 鈴木ヤスシで
「ヤスキスズシ」っていう
サラリーマンの…
クレージーキャッツさんなんかがいた
あそこのグループですね。
渥美さん もちろん出てまして
徹子さんも ご出演してらした。
だから 何度か お話しは
した事はあるんですけど
やっぱり
怖い存在でございましたので
なかなか自分からは
話しにいけませんでしたけど。
私が?
ええ。
そんな事はない…。
いや 今は徹子さん
お話のテンポって こういう…
ゆったりとして…
こういう感じじゃないですか。
でも あの頃っていうのは
トントン トントン…。
速かった…。
「はい。 それで どうしたの?
はい はい…」って言うから
なんか 怖い…。
ちょっと しゃべったら
怒られるんじゃないかな
なんていう事で お話も…。
失礼致しました。
いえ。 十二分にできなくて。
そうですか。 あの頃で
一番 思い出に残ってるのって
どんな事ですか?
色々あったけど でも あんまり…
僕は楽天家っていうか
あんまり つらいなとかとは
思わないで
楽しく やってましたね。
そうですか。 でも 渥美さんが
人生には3回
チャンスがあるって
おっしゃってて
あと2回は その後 来ました?
まだ来てませんけど
多分 2回は今回 この番組に
出させて頂いたっていうのが
2回目のチャンスじゃ
ないですかね。
まあ 3回目があるとすれば
ひょっとすりゃ
あの世に逝って
渥美清先生にお会いするのが
第3のあれかなとも
思ったりしてます。
それから 何か あなた
アラン・ドロンとも
親しくなったとかいうの…
そうですか?
ハハハ。 そうですね。
見に来てくださいました。
アラン・ドロンが?
はい。
あっ そう。
ジャズ喫茶に
突然 通訳の方と
ボディーガードの方
ですね。
3人で 新宿の
ラ・セーヌっていう所へ
来まして。
へえー。
あれ 第1回の
フランス映画祭で
来日したんですけどね。
それで 僕がステージ終わったらば
お話ししたいんで
付き合ってくれないか
っていう事なんですけど。
だけど 僕 その時に
新宿に稽古場がある
あるテレビ局のドラマが…
『現代っ子』っていう
きょうだいの物語の
リハーサルがあったんです。
ですので 「リハーサルがあるんで
今日は行かれない」って言ったら
ドロンが 「ついて行っていいか?
行ってもいいか?」って言うんで
それで リハーサルを1時間以上
ずっと隅っこで見てました。
あら すごい。
それから… 終わってから
1杯 飲みに行かないか
っていう事で
それで 行きまして。
ドロンの…
生い立ちじゃないですけど
色んな事を話してくれました。
そうですか。
それで 仲良くなって
他にも 赤坂にステーキハウスを
1軒 貸し切りにしまして。
僕だけ 日本人 呼ばれまして
それで 食事をしたりとか。
でも 随分 ハンサムですね
こうやって見るとね
アラン・ドロンという人もね。
そうですね。
これは あるテレビの番組の時に
ドロンが呼ばれて
客席にいたら 「鈴木ヤスシ
お前も上がってこい」って
ドロン 言って。 それで 僕は
ただ 上に上がっていって
こうやって手を…
拍手したんですけど。
そうね。 『夢であいましょう』にも
いらっしゃって。
あっ そうですか。
そう。 あの時ね 一緒に…
ホテルまで
一緒に帰ったりなんかして
話も随分 色んな… して。
なんか 寂しいとか
言ってましたけど。
なんだか
わかんないですけど
そう言ってました。
これ
『夢であいましょう』に
あの方が
お出になった時ですね
アラン・ドロンさんが。
それで 僕がアラン・ドロンと
そうやって友達でって
何回か お会いして
色んなエピソードっていうか
あったんで。
その話を美空ひばりさんとか
中村メイコさんが
「ヤスシ
アラン・ドロンの話をしてよ」
って言って
いや こうなんですよって言って
ドロンが ちょっと
気に食わないっていうか…。
普通 お酒っていうのは
マドラーみたいなので
こう かき回すのがあるんですけど
それを使わないで
人さし指で こうやってやる…
彼の癖なんですよ。
それで こうやって飲むとかって
そんな話 して
「へえー」って言って。
まあ ひばりさんも メイコさんも
大変 喜んでくれたというか…。
それで 全国
色んな旅なんか行って
小さなお店に入ったりして
ドロンのファンの
ママさんなんかっていうのは
「あなた ちょっと
ドロンの話 してよ」って言われて。
で 何回か 色んなエピソードとか
お話をしまして。
帰る時には
「今日はタダでいい」って。
あっ そう。
それとか
半額にしてくれたりとか。
随分よかったですね。
随分
いい思いをさせて頂きました。
なるほどね。
でも なんか アラン・ドロンさんは
色々 物をくださったけど
くださらなかったものが
あったんですって? なんか。
あっ はい。 腕時計で
すごくかっこいいの あったんで
「それ 僕にプレゼント どう?」
とかって言ったら
いやー これは
ナタリー・ドロンから頂いた…
もらったものだから
これ 記念で持ってないと
また フランス帰ってから
大変な事になるからって。
フフフフ…。 なるほどね。 ふーん。
その頃
何語で話してらしたんですか?
アラン・ドロンと。
僕は英語です。
普通の日常会話の英語が
できるんで
それで 話 してました。
ただ
通訳もいる時もありますから。
あっ そうですよね。
フランス語で…。
ドロンも それほど
英語が達者っていうか
やっぱり フランスの…。
まあね。
いい思い出 たくさんあります。
あっ そうですか。
よかったですよね。 そうですか。
お宅には 映画史にも残る
すごいトロフィーがあるとかって。
すごいかどうか… 僕が直接
頂いたものじゃないんですけど。
ベネチアの国際映画祭ですね。
妻の父が これを頂いたんですね。
『西鶴一代女』っていう
田中絹代さんの この映画を
自分で個人的に作ったんですね。
児井プロダクションって…
これ 今 父親なんですけど。
あっ そうなんですか。
児井英生って
のちに日活のプロデューサーで
『渡り鳥』シリーズとか
『嵐を呼ぶ男』を
プロデュースした…。
あっ そうなの。
はい。 そんな妻の父なんで。
そういう事で うちに
そのトロフィーっていうか
金獅子があるという事なんですね。
ふーん。
すごい。
これ 香港の香港島にある
セント・ジョンズ カシードラル チャーチ
っていう所で…
教会で結婚式を挙げまして。
そうですか。
若いです。 若いっていうのは
当たり前ですけど。
でも 奥様も
そういう お嬢さんだから…
お嬢さんっていうのは
プロデューサーのお嬢さんだから
映画界に詳しいので
色々 厳しいんですって?
ええ。 父に
色々 ついて行ったりして
知ってますもんですから
「これは
しない方がいいんじゃない?」
「これは こうだよ」っていう
アドバイスですね
文句じゃなくて。
そういうものは頂きます。
ですから 僕も今回 こっちに
出演させて頂く事になって
大変光栄で
私自身も うれしいんですけど。
家内が言うには
この番組は よく見てますけど
とっても過剰に はしゃぐ人が…。
やっぱり 出演して うれしいとか
はしゃぐ人がいるけど
「あなた
はしゃいじゃ駄目よ」って。
それから 徹子さんが質問したら
1つだけ答えれば
徹子さんが また それに対して
質問するんだから
それは注意しなさいよって。
あっ 一度きり…。
いくつも いくつも
話をしないようにって?
フフフフ…。 いや…。
それと あと最後に
「あなた この番組は立って
最初に挨拶して出てきても
かなり引きの画で 足元…
靴下とか そういう 靴
よく映るから
そんな 恥ずかしい靴
履いていかないで」って。
ハハ…。 そうなの?
そうやって言われました。
まあ 79歳の奥様と
80歳のあなたとで
家庭内別居みたいな事
やってらっしゃるんですって?
家庭内別居っていうと
あれですけど そうじゃなくて
ある人から言われたんですけど
34になって結婚するっていう事は
その前に10年も20年も
自分一人の生活が ずっとあった。
それは 奥さんの方にも
あったでしょうと。
それが 急に
結婚したからっていってね
1つの布団に2人で寝たりとか
何か ご飯を食べる時に
2人でっていうのは
これは 相当 あれだよ
大変だよっていうような事を
言われまして。
それから 僕も仕事が
かなり忙しかったもんですから
夜中近くに帰ってきたりとか
そういう事もありまして
時間的に相当 ズレがあります。
相手が もう 寝てるとかも…。
そういう事があるので
家を建てる時に 自分の寝室と
それから デスクがあって
仕事場と
洗面所 トイレっていうのを
自分の…
2階に自分だけの世界を作って。
それで… お風呂は1つですけど。
それで生活してるっていうんで。
だから 食事も
女房はベジタリアンなんで…。
あっ そうですか。
僕は日本食が好きで
なんでも食べます。
だから そういう事で
合わないんで 結構… なんですか
別々の食事っていうか…
そばにはいますけど。
冷蔵庫も
普通の一般の家庭である…
皆さんの家庭にある冷蔵庫は
2つあって。
それから 僕専門の
いつも座ってる後ろに
自分の食事のものを置いてあって
そこから冷蔵… 出して
飲んだり食べたりしてます。
ですから
家庭内別居ってなりますけど
仲が悪くて
別居してるんじゃなくて
リズムが ちょっと
2人とも違うので
それで そんなふうにしてます。
冷蔵庫も別々でっていう…。
だから 女房は とにかく
おすし屋さん行っても
かんぴょう巻きとか
キュウリ巻きとか
そんなようなもので
お刺身も食べませんし。
奥様は。
ですから 安上がりですよ
おすし屋さん行っても。
フフフフ…。
それから
お肉は もちろん食べませんし。
なんか 昔は食べたなんて
言ってましたけど
今は食べないんで。
なるほど。
80歳からの夢は何かありますか?
まあ 夢っていうか
これから何ができるのか
わかりませんけど
今はエンジンの切れた
惰性で走ってる
トロッコみたいなもんですから
それが いつまで…。
まだ頑張っていきたいと
思いますんで…。
そうですよね。 お元気で。
はい。
どうも
本当 ありがとうございました。
どうも。
『徹子の部屋』は
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