坂田 利夫(さかた としお、1941年〈昭和16年〉10月7日 – )は、日本のお笑い芸人。漫才コンビ「コメディNo.1」の元メンバー。
本名・地神 利夫(じがみ としお)。通称・アホの坂田。後輩芸人や年下の著名人や一般人からは坂田師匠と呼ばれている。
1941年10月 大阪府大阪市港区に生まれる。弟、妹がいる。実家は地神ワイヤーロープ製造業(家内工業)。
1955年 台風の被害により家が壊れ、大阪市西区にあった製綱会社工場に一家で住み込む。
1961年 高校卒業後に職を転々とした後に[2]吉本新喜劇の研究生として吉本入り。なお、吉本入りする直前に勤めていたのは大阪ガスの関連会社[3]。
1967年 前田邦弘(前田五郎)と漫才コンビ、コメディNo.1を結成。
1970年 第5回 上方漫才大賞(ラジオ大阪) 新人賞受賞。
1971年 昭和45年度 第1回 NHK上方漫才コンテスト 最優秀話術賞受賞。この2度の栄冠が、坂田(地神)にお笑いの道への専心を決意させることになる。
1972年 第1回 上方お笑い大賞(読売テレビ)金賞受賞。
1972年8月 レコード「アホの坂田」発売。
1979年 第14回 上方漫才大賞(ラジオ大阪)大賞受賞。
2009年8月31日 コメディNo.1を解散。
「アホの坂田」が大ヒットした際、大阪の教育委員会から「サカタ姓の小中学生がからかわれたり、いじめに遭っている」との指摘を受け、放送局は一時この曲の演奏を自粛したり、レコード店もレコードの販売を一時見合わせる事態になり、坂田自身もいわれのないバッシングを受けた。また、選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも採用が検討されていたが、これらの事情により取り消しになったとの説もある[9](代わりに選ばれたのが水前寺清子の「365歩のマーチ」だった)。
自らをアホ(阿呆)と称し、他人に軽蔑されても意に介さず、また明石家さんまなど後輩から「もう『師匠』なんですから仕事を選んで」といさめられてもアホに徹する芸が代表的。アホのキャラクターを演じ始めるようになったきっかけは、ある日の舞台で相方・前田に「お前はアホか」と振られた時に「そうやアホや」と返しただけという掛け合いだったが、その時に客がドッとうけ、「これや!と思った」という[21]。また、吉本によって坂田が「一番アホそうやから」としてアホキャラで売り出すことになったということもあった[9]。「ギャグの多くは偶然の産物。ウケようと思うて作れるものではない」と語っている。
しかし「アホ」はあくまでも芸風で、プライベートでは決して周りの人(弟子や付き人達など)にそう呼ばせない。見知らぬ人に「アホ」といわれるとムキになって怒り、舞台でも観客に「アホ」などと言われて喧嘩したこともあった。また、「バカ」と言われると相当不機嫌になる[注 2]。
ぼくが、高校の時、40年前、梅田花月を見に行って。前をそのとき、坂田大師匠が歩いておられた。
若いヤンキーが、「ああ、あほがあるいとる!」と茶化すと
大師匠は、「あほちゃうわい!おまえがあほじゃ!」と、すごい剣幕でおこりなさった。そのとき、あたりは一瞬、止まった。時間が停止した。
「坂田利夫があほいわれておこってる」その事実にだ・・。
喜劇、お笑い、その陰で売るために芸人たちは血のにじむような努力をしておる。みんなを笑わせる、笑ってもらう。でも、なかなか、わらいよらへん、すぐにしらけよる。
人間坂田利夫。本名地神 利夫、あほあほ言われて55年、
相方のつっこみ、前田五郎師匠もおらへん、つっこんでくれへん。
事件起こして吉本辞めて、亡くなってしまった。
そのときは、さみしかったとおもう。
坂田大師匠が結婚せーへんのもわかる、子供が生まれたら、あほあほ
言われる、それが恐れたのではないかとも思う。
坂田大師匠のおかあさんは、ことあるごとに、
「このこはあほちゃいますねん、かしこいんですねん」
と、かばったらしい。
チンドン屋が好きで、どんどんついていっていったしまい。
帰ってこない。どこいったか、わからん。
警察官が、連れて帰ったきた。
「おかあさん、こまりますな、これからは、名前と住所の札を
つけといておくれやす」
言われて、おかあさんは青ざめてひたすらあやまり、それから
首からふだをぶらさげたという。
「あほ」を演じる芸風を続けることになる彼は
たびたび、深く悩むわけである。
あるとき、師匠は、お母さんを連れて、レストランでごちそうをした。
満足してたところへ、若いヤンキーが、師匠を見つけた。
「あ、こんなとこに、アホの坂田、おるやん。アホの坂田ー」
とうたいだした。
苦笑いをする師匠、年老いたおかあさんは目くじらを立て
泣きながら
「この子は、私の子です、私の子はあほ違います」
叫んだ。あたりは静まり返り、ヤンキーたちは、その場から去った。
坂田師匠は、大好きな母親にこんな思いをさせて、心が張り裂けそうになった。吉本の誰にも相談できへん。そんなもの相談しようもんなら
仕事がなくなる。
アホ役に徹していた、松竹新喜劇の藤山寛美師匠を訪ねた。
「わし、もう、つろーおまんねん、どうしようもないんですわ、どうしたらええんですやろ、寛美師匠!」
寛美師匠は、楽屋の鏡の前で、たばこをくゆらしながら
考え込んだ。
「そうか、坂田さん、たいへんやったな、お母さん泣かせてもうたんか、そりゃ、つろおしたな・・。」
寛美師匠は、腕を組み、鏡から向きを変え
「でもな、あんた、泣いたんは、おかあさんやな、あんたがなかしたんとちゃうで、あんさんが、仕事でアホ演じてる。その虚像が、みんなをあほあほいわせてるんや」
「でもな、あんさん、こころ優しいひとしか、そのアホな演技はできひんのでっせ、アホはあほなりに、苦労するもんです。」
坂田利夫は、目からうろこがおちるように、気持ちが晴れた。
母親に、あんなことを言わせて、泣かれた、
ほんとうに、つらい。
でも、おれがアホになることで、みんなが笑い、みんなが幸せになれるのなら、そして、前田五郎や、吉本のみんなも仕事ができる。
アホの坂田。そのとき、彼の決心はゆるぎなきものとなった。
1990年、寛美師匠はあの世に去った。
坂田利夫師匠は、手を合わせ、
「あのときは、ありがとうございました」
アホがひとり減りましたが、フールファイブは4人でもアホになります。
いま、坂田利夫大師匠は 80歳を超え、
人間国宝に指定されようとしている。
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