『銀河鉄道999』や『宇宙戦艦ヤマト』などを手掛けた漫画家・松本零士さんが13日、急性心不全のため亡くなりました。85歳でした。
第2次世界大戦が始まる前の年、福岡県に生まれた松本零士さん。9歳の頃、手塚治虫さんに憧れ、マンガを描きはじめました。
きょうも日本の原風景が残る愛媛県・大洲市。零士さんが疎開していた場所です。
松本零士さん(1982年):「私が書くマンガには、土がやたらと出てきます。それから四季の移り変わり。春夏秋冬、つくしがいつごろ生えるか、カエルの卵はいつごろ水の中に漂っているか、全部知っています。そういうものを見ていなければ、銀河鉄道も描けなかった」
当時、ふもとを走っていた列車が、そのまま宇宙へと飛び立つイメージが999号につながりました。
戦争の中にありながら、自然の息吹を感じて過ごした温かい記憶。18歳の時、夜行列車で上京した時は、外国へ行くほどの覚悟だったといいます。
地球を救うために闘う『宇宙戦艦ヤマト』など壮大な作品が印象的ですが、初期には、自分を投影したような不器用な男性の極貧生活を、愛おしくつづったものもあります。
多様なモチーフの根底にある零士さんの思いを、交流のある人はこう話します。
大刀洗平和記念館・尾籠浩一郎館長:「非常に平和に対する強い思いをお持ちでした。作品を通して、日本だけじゃなく、世界中に伝えていたと思う」
同じ時代に切磋琢磨した、ちばてつやさんは…。
ちばてつやさん:「本郷3丁目にあった、西陽差し込む4畳半の彼の下宿には、よく遊びに行ったものです。2人ともまだ稼ぎも少なく、満足に食べられなくてね。松本さんはよく『座布団のようなビフテキを食べたい!』なんて言いながら、マンガを描いていました。君も逝ってしまったのか。もう…体中の力が抜けていくよ」
終戦は、7歳の時でした。
松本零士さん(2016年):「うちのばあさんが日本刀を抜いて、打ち粉を打って磨いている。恐ろしい目つきで。『それでどうするん?』と聞いたら『敵が来たら刺し違えて死ぬのじゃ』と。『お前も侍の子じゃけん、覚悟せい』と言うわけです。チビだからピンとこないんですよ」
陸軍のパイロットだった父親から、戦地の話をたくさん聞きました。
戦争を題材にした作品を描き続けた理由の一つです。
『ザ・コクピット/音速雷撃隊』では、月へ行くロケット技師を夢見た青年が、特攻に向かう心情を描きました。
作品には、アメリカ兵の心情も…。
アメリカ兵:「敵も味方も、みんな大バカだ」
松本零士さん(2019年)「(父親が)相手を撃墜する時も『あいつにも死ねば悲しむ家族や子どもがいる』と。だから一瞬ボタンが押せない。でも鬼になって撃墜しなきゃいけない。おやじが言ったのは『人は死ぬために生まれて来るのではない』と。『だから二度とこういうことをやってはいかんのだ』と」
松本零士さん(2016年):「(Q.宇宙を舞台にした戦記物が多いです。戦争の何を伝えようと思って、いつも描いている?)それぞれに家族があって、人は、生命体は生きるために生まれてくるので、死ぬために生まれてきたものは何もない、誰もいない。それを前提に、やむを得ず戦って殺し合う。そういう物語を子どものころから自覚していまして。だから思想・宗教・信条・民族感情、お互いにこれを傷付けてはならない。仲良く、みんな手を携え、一緒に頑張って、この地球を守るというのが、それがテーマで宇宙マンガを描いている。(Q.戦争とは可能性が消えることだとも)そうです」
松本零士先生は宝塚大学・東京新宿キャンパスで13年間、授業を行ってきました。
今の学生とは年齢は離れていても、距離は非常に近く、授業が終わった後も色々な話をしていたといいます。
松本零士さんの授業を受けた学生:「若い時は色々体験しろと。自分の一番好きなキャラクターは、自分の遺伝子に組み込まれているから『それに従って描け』。それが教わった中で一番効いた言葉です」
零士さん自身、手応えを感じていたといいます。
授業で助手を担当:「普通だったら『俺の時は…』って話し方をしちゃうと思うんですけど、何もかも受け入れる。そして与える。隔てない方でした。考え方が宇宙規模ですから、今まだ描いているんじゃないかな。死で終わりというより、まだ続くんだよって…」
鉄郎との別れのシーン、メーテルのセリフ。零士さんが、常々話していた言葉です。
「遠く時の輪の接する処で、また巡り会える」
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp
powered by Auto Youtube Summarize