語り継ぐ戦争 父が元北米日系移民 警戒された「米国帰り」の野口浩昭さん

「えらいことになった」。太平洋戦争が始まったあの日の夕方、愛知県の旧八開村の、この家の居間で父母が話し込んでいた。
 父母は元日系の移民です。豊かな米国を肌で知っており、無謀な戦争と思ったのだろう。それに母の妹をはじめ、親戚、知人が米国にいて連絡が途絶えた。
 ここは明治の中ごろから米国への移民が多かった地域です。八開村の農家の次男だった父も明治40(1907)年、19歳で渡米し、カリフォルニア州の農園などで働いた。一時帰国し、(津島市出身の)母と結婚し、米国に戻った。
 父は米国人の農場で働き、トマトやポテト、ホップを作った。そのうち農場で使用人のまとめ役になり、ホテルも経営した。昭和3(1928)年ごろ、資産を処分して帰国。故郷に家を建て、生まれたのが僕です。姉2人は米国生まれ。父は当時、絶対安全と言われた八幡製鉄や満鉄の株や貯金で暮らしていた。
 戦争が始まると、「米国帰り」は警戒された。憲兵や警官が家を探りにきた。庭にワイヤを張って洗濯ざおの代わりにしていたら、「無線のアンテナじゃないか」と疑われた。
 学校ではもっぱら鬼畜米英の教育です。僕も軍の慰問に派遣され、「鬼畜米英をやっつけて」とあいさつした。学校代表に選ばれたことは父母も喜んだが、教師の指示で「米国のおもちゃは全部焼け」と言われた時は、「そんなばかな」と反発した。
 隣の家も元移民です。長男だけ愛知3中(現・津島高校)を卒業後、渡米した。戦争が始まり、差別をはね返そうと米軍に入隊し、欧州戦線で戦った。次男は日本軍で戦死した。3男は、予科練を志願。結局、特攻で亡くなった。
 父は敗戦の混乱で資産を失い、戦後は惨めな生活でした。次姉は昭和23(48)年、渡米し、向こうで結婚した。相手は旧佐織町出身の日系2世。戦争中は米軍に入り、ガダルカナルやフィリピン戦線で戦った。捕虜の尋問や降伏勧告をした。尋問中、相手が自分と同じ町出身だと分かり、驚いたこともあるそうだ。
 僕は長く紡績の仕事をして、今は、この地域の日系移民記念碑の保存会の代表をしています。

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