キーウ攻防戦なぜ失敗?ロシア軍“誤算”とウクライナ軍の“滑走路・水門破壊”とは(2022年5月25日)

ロシアは、ウクライナの首都・キーウを数日で制圧するともいわれていましたが、予想外の長期戦となっています。

まだ侵攻が始まる前の2月。キーウなどウクライナ北部では、不審な発光体や印が至る所で見つかっていました。マーキングの正体は、ロシア軍が攻撃するための目印です。実行犯は、わずか数万円の報酬で雇われたウクライナ人のスパイ達でした。

そして2月24日、侵攻開始。ロシア軍は半日足らずで、キーウまでわずか10キロにあるホストメリ空港まで襲撃します。キーウ北部の防衛を統括していた指揮官は、当時のことをこのように話してくれました。
領土防衛隊指揮官:「こんなにも自信を持って、簡単に侵攻してきたのは、ロシア系正教会の2人の神父などが、空挺部隊の降下をナビゲーションしたから。ロシア軍の空挺部隊を乗せたヘリがとても低く飛んでいた。煙突に届くほどの低さで、機関銃手とパイロットが肉眼で見えたほど」

エリート集団・空挺部隊が襲撃しました。ホストメリ空港は、あっという間に陥落し、ロシア軍の前線基地になってしまいます。地上部隊も、続々、到着し、首都陥落は時間の問題だと思われていました。

しかし、順調だったのはここまでです。ウクライナ軍は、この空港をたった1日で無力化することに成功。滑走路を使えなくしたからです。
ホストメリ空港戦の参加者:「滑走路の破壊のため迫撃砲での攻撃が命令された。ロシア機を着陸させないため。『15~18機のロシア軍輸送機が、ホストメリ空港に向かっている』『大部隊を送り込んでくる』と情報を得ていた」
輸送機に積まれたロシア軍の増援部隊が、ここに降り立つことを防いだのです。
ホストメリ空港戦の参加者:「ロシア軍の旅団が丸ごと、軍用車両、戦車、重火器と一緒に、キーウから10キロの地点に姿を現すつもりが、ベラルーシからの陸路の移動を強いられた」

キーウから北に約40キロのデミディウ村。ロシア軍が直面したもう一つの大きな誤算です。デミディウ村は、広範囲に水没していました。ウクライナ軍が水門を破壊。実行されたのは、侵攻開始の翌日、2月25日のことです。
デミディウ村長:「戦略的に重要なバリアとなっていて、ロシアの戦車が通れなかったのも、ここが水没したから。洪水がなければ、計画通り3~5日でキーウまで到達していたでしょう」

空港の占拠に失敗したロシア軍は、ベラルーシから陸路でキーウを目指すことになります。最短ルートは、川沿いを南下し、デミディウ村を通過するものだったのですが、水没していたため通行不能。ロシア軍は、一度、引き返し、大幅な迂回を余儀なくされました。

その後、60キロを超える車列でキーウを目指すことになったロシア軍は、ジャベリンなどで狙い撃ちされることになります。結果、行き詰まり、1カ月後にはキーウ攻略断念ということになりました。

水没作戦は、ソ連時代、ナチスの侵攻を食い止めたものでもありました。
デミディウ村長:「1941、42年にナチスが攻めてきたときも同じ状況だった。デミディウ村を通ってキーウを攻めることできない。デモディウ防衛ダムって標識です。ここは戦略的に重要施設」

◆ロシアの軍事・安全保障政策が専門の小泉悠さんに聞きます。

(Q.意図的に滑走路や水門などを破壊して、相手の補給や進軍を止めるウクライナの戦術をどうみますか)
侵略を受けた側の一種の定石。かつてロシア帝国にナポレオンが攻めてきたとき、自分たちでモスクワを焼いています。ロシアも攻められれば、同じことをしたわけで、そのとき何やればいいのかというのは現場の工夫です。空港を破壊する、村を水没させるというのは、相当の覚悟と機転が必要。そういう覚悟と機転をウクライナが持っているということをロシア側が侮っていたのではないかという感じがする。こういうことができるとわかっていたはずだが、気のゆるみが作戦の最初からあったように見えます。

(Q.森や湿地といった地形の読みが甘かったという分析もありますが、どうでしょうか)
キーウ北部は大湿地帯なので、進撃は難しいとロシア軍は重々にわかっているはず。ナポレオンもこの湿地で苦しんでいます。そういうことを考えますと、普通の戦争をする気だったら、もっと気合を入れてやるはずだったのに、そうではなく、少数の兵力で、短時間で奇襲をかけ、あっという間に終わるという想定で始めた。しかし、それがうまくいかなかった場合のプランBをちゃんと考えていなかったという感じがします。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp

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