東日本大震災から10年の2021年3月11日。
岩手県内で最も多くの人が犠牲になった陸前高田市では遺族などが祈りを捧げた。
津波で両親を亡くした 及川晴翔さん
「震災当時、まだ小さかったけれど、10年たって、こんなに大きくなったよとかこれからの進路や将来のことを報告しました」
震災で両親を亡くした及川晴翔さん(16)。
あの日のことを今も鮮明に覚えている。
及川晴翔さん
「あのごみ収集の箱があるじゃないですか。たぶんあの空き地のあたりですかね」
かつて自宅があったこの場所からあの日も小学校へと向かった。
及川晴翔さん
「(小学校で)帰りの会をしていた途中に地震がきた」
父・徳久さんと母・昇子さん。
晴翔さんと2つ上の兄を残し、津波に飲まれ亡くなった。
初めて晴翔さんに出会ったのは震災直後の避難所。
当時、小学校1年生だった晴翔さん。
兄・佳紀さんと、率先して手伝う姿が印象的だった。
当時、両親が行方不明だったにも関わらず、明るく振る舞う兄弟。
そこにはこんな思いが隠されていた。
晴翔さんの兄 及川佳紀さん(当時9歳)
「(両親は)来てくれると思っている、頑張っていたら…」
目立っていれば両親が見つけてくれるはず、そう信じて兄弟は耐えていた。
しかし願いは届かず、その後、両親は遺体で発見された。
及川晴翔さん
「当時は小さかったので両親がいなくなったことを受け入れられないっていうか。(両親の死を自覚したのは)小学3年生くらいとかですかね。学校から帰ってきてもいないんだなって、寂しかったですね…」
あれから10年。晴翔さんは高田高校の2年生。
今は市内の災害公営住宅に祖母と2人で暮らしている。
兄の佳紀さんは2020年、仙台の専門学校に入学。
家は少し広くなった。
及川晴翔さん
「ちょっと汚くて申し訳ないんですけど…」
少し照れながら見せてくれたのは、色褪せた筆箱。
晴翔さんが10年以上使い続ける大切なもの。
及川晴翔さん
「亡くなったお母さんがお兄ちゃんに買った筆箱を、俺がおさがりでもらった。お母さんが残してくれた数少ないもののひとつだから、壊れるまではずっと使ってようかなって」
及川晴翔さん
「(お母さんは)一緒に勉強や遊んだりとかした時、できたりするとすごく褒めてくれた」
及川晴翔さん
「(お父さんは)夏に朝早く起きて一緒にカブトムシ捕りに行ったり、お母さんとお父さんと一緒に高田松原に行って海で遊んでました」
そんな晴翔さんを見守り続けてきた人がいる。
避難所で生活を共にしていた菅野浩子さん(78)。
2人の出会いには、こんなエピソードがあった。
菅野浩子さん
「(避難所で)最初に泊まった夜にお腹蹴られてビックリして痛くて起きた。そしたら晴翔くんだった。隣が」
避難所では寝る場所が隣だった2人。
子供がいない菅野さんは、晴翔さんたち兄弟に対し家族のように寄り添っていた。
菅野浩子さん
「すごくかわいかった。理由なんてない。明るく動いてくれたから、私たち逆にその声に癒されたっていうか」
一方で複雑な思いも抱いていた。
菅野浩子さん
「こっちも両親のこと言えなかったし、この子たちも言わなかったね。耐えてたんだと思う」
その後別々の生活が始まるが、晴翔さんをいつも気にかけていた。
菅野浩子さん
「連絡はしてなかったけど見守ってはいたの。例えば記事になったりテレビに出たりとかずっと見守り続けたいなって」
この日、菅野さんは晴翔さんと久しぶりに会うことにした。
菅野浩子さん
「えー!こんなに大きくなったの?びっくりー!」
久々の再会でも10年前と変わらない。
及川晴翔さん
「でもまだ若いですよ」
菅野浩子さん
「ありがとう。1番いいこと言ってくれた。そんなお愛想も言えるようになったの?」
菅野さんはずっと伝えられずにいた気持ちを伝えた。
菅野浩子さん
「なかなか晴翔くんの気持ちの中に入り込めなくて、何も言えなかったけど、言いたいことがあったらいつでも来てください」
及川晴翔さん
「はいわかりました」
離れていてもお互いを気にかけていた2人。
菅野さんに晴翔さんとの思い出がまた一つ増えた。
4月から高校3年生の晴翔さん。
将来は地元の魅力を伝える仕事がしたいという。
そしていつの日か夢が叶ったら、亡き両親に伝えたい言葉がある。
及川晴翔さん
「お父さんとお母さんが自分を産んで育ててくれて、(両親が)亡くなったあとは、おばあちゃんとかがちゃんと育ててくれたから、成長して大人になって、仕事について『自分でもお金稼げるようになったよ』とか、『心配しなくていいよ』とか…そういうことを言いたいです」
両親を失いながらも懸命に生きた10年。
その視線の先には、そう遠くない未来が見えていた。
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