作家、そして政治家の石原慎太郎氏が1日、亡くなりました。 89歳でした。
夕方、4人の息子が取材に応じました。
長男・伸晃氏:「父・石原慎太郎が本日の午前に急逝しました。89歳、数えで90歳であります。すい臓がんを患っておりまして、本当によく闘い、よく頑張ったんですが、去年12月に短編小説を取りまとめまして『これが俺の遺作だな』と、こんなことを話しておりましたけど、最後まで作家として仕事をやり遂げた」
次男・良純氏:「本当に最後、体が動かなくなっても、1時間・2時間ワープロに向かって文字を打ち続けた姿は、まさしく文学者なんだなと。その分、家庭人といいますか、父親としては、かなりユニークな人だったと思います。僕らが言うのもなんですけど、一つの時代を築いた父でありますから、父がいなくなった後、より僕らも頑張っていかないといけないと思います
四男・石原延啓氏:「本当に父を長い間、応援していただいたので、家族一同心よりお礼申し上げたいと思います。本当にありがとうございました」
1932年、昭和7年に兵庫県神戸市で生まれた石原氏。一橋大学在学中に発表した小説『太陽の季節』で、一躍、脚光を浴びます。1968年、政治家に転身。政策グループ『青嵐会』を立ち上げるなど、タカ派の若手として存在感を示しました。環境庁長官や運輸大臣を歴任しますが、1995年、議員在職25年の表彰を受けた直後に辞職を表明しました。
この4年後、1999年に東京都知事選に出馬します。166万票を集めて圧勝。14年にわたる長期政権を築きます。
ディーゼル車の排ガス規制や東京マラソン立ち上げなど、多くの実績を残しますが、核武装論や中国への強硬姿勢など、過激な“石原節”は、たびたび問題になります。特に尖閣諸島をめぐっては、都が購入する考えを表明し、国の外交にも影響を与えました。
2012年、4期目の途中で、衆議院選に立候補するため、都知事を辞職しました。
石原氏は『太陽の党』を結成し、日本維新の会と合流。80歳にして国政に復帰しました。しかし、2年後、落選。政界を引退します。
去年10月、すい臓がんが再発し、病と闘いながら執筆を続けていたという石原氏。3日前にも杖をついて歩く姿が近所で目撃されていましたが、1日午前、自宅で息を引き取ったそうです。
葬儀は親族のみで行い、後日お別れの会を行う予定です。
石原氏の死去を受けて、各界から悼む声が上がっています。
石原都政を副知事として支えた猪瀬直樹氏は、作家としての感性を高く評価します。
猪瀬直樹 元東京都知事:「“巨星墜つ”という感じ。存在感がすごくある人だった。忖度(そんたく)だらけの社会だから、そういう意味では、あの人は社会に対しては、存在としては変人ですよね。日本の政治家は官僚的な答弁ばかり。石原さんは感性とロジックを駆使して訴える。本来の政治家の在り方。言葉の力を復活させるようなパフォーマンスができた人。文化人であることがやっぱり大事」
保守政治家にとって、大きな存在でした。
安倍元総理:「石原さんは、挑戦的な姿勢をずっととり続けた方。時には物議を醸す発言もされたが、彼は、そうした批判を乗り越える強さがあった。常にさっそうとした姿勢で闊歩する姿には、多くの人たちが憧れを持ったのではないか」
石原氏は、日本維新の会の共同代表も務めました。
日本維新の会・松井代表:「戦前・戦中・戦後と経験。僕らは戦争を知らない年代。憲法改正への思い入れは非常に強いものがあった。『今の日本国憲法は日本人の意思が反映されていない』と。そもそも作家として『憲法の文章もおかしい』と言っていた。やはり『憲法を変えるべきだ』というのが石原さんの強い思い」
石原氏の盟友、中川一郎元農水大臣の秘書を務めていた鈴木宗男氏。半世紀の付き合いがあります。
鈴木議員:「世間的に自分のペースや、自分の思い通りにやる印象があるが、中川先生の言うことだけはちゃんと聞いていた。けれん味(ごまかし)のない言いぶりの石原先生ですし、誰よりもはっきり物を言う中川一郎先生だった。恐らく天上で『もう一回、青嵐会をやるぞ』と話をしているのではないかと」
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp
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