小川知事が無念のリタイヤ 肺腺がんの治療に専念 

約10年にわたった県政運営に、事実上の終止符が打たれました。肺腺がんで入院している福岡県の小川洋知事が22日午後、辞表を提出しました。

「午後2時50分です。服部副知事が小川知事の元へと向かいます」。

22日始まった2月議会の初日日程終了後、服部副知事が九大病院で小川知事と面会しました。

「先ほど知事から辞表を預かってまいりました」。

小川知事から手渡された辞表は県議会の吉松源昭議長に届けられました。

小川知事は去年12月、肺炎の疑いで1週間入院。公務に復帰したものの、息苦しさは改善しませんでした。

「ちょっとマスクが…」公務や会見でも時折、苦しそうな表情を浮かべていた小川知事。先月20日から再び九大病院に入院していました。

小川知事の辞意は21日のうちにごく限られた関係者に伝えられていました。

「余りにも時間が。もう少し治療に時間がかかるということで、議会開催中は間に合わないと、復帰を断念したという話でした」。

知事選では後援会長を務め、県医師会の会長でもある松田峻一良氏は、新型コロナ対策でも戦友といえる間柄でした。

「コロナの中で私たちと二人三脚のような格好で、県医師会と行政とが一緒になって頑張ってきた。彼の心の中を考えると無念さしかないだろうと」。

1949年生まれで地元・修猷館高校出身の小川洋知事は、通産省に入省し、特許庁長官などを歴任したあと、2011年4月の知事選で初当選を果たします。

2015年、再選を果たしますが、2年前の知事選では、麻生太郎財務大臣や自民党県議団が推す元官僚候補との保守分裂選挙となり、一部から「小川いじめ」の声すら上がった厳しい闘いを余儀なくされました。

ふたを開ければ圧倒的大差をつけ3選を果たしますが、選挙戦を通じてできた自民党県議団らとの溝は、その後の県政運営で影を落とす場面も見られました。

一方で、2017年「沖ノ島と関連遺産群」の世界遺産登録では、国に積極的に働きかけるなどして見事実現。

同じ年の九州北部を襲った豪雨では、自治体の復旧費用を政府が支援する「激甚災害」の指定を取り付けるなど、リーダーシップを発揮しました。

そして新型コロナとの闘い。小川知事は対策費を軸とする福岡県政史上初の2兆円を越える新年度予算を編成。

その上程の日を待ったかのように22日の辞表提出となりました。

「皆さま本当にお世話になり、ありがとうございました。そして道半ばにして辞任せざるをなくなったことを心からお詫びを申し上げます」服部副知事が小川知事のメッセージを代読しました。

辞職は県の選管にも通知され、23日から50日以内に知事選が行われます。

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