出典:EPGの番組情報
英雄たちの選択「“悲劇”の会津藩主・松平容保~公武合体に賭けた夢~」[字]
幕府と天皇への忠誠を貫きながらも、明治新政府によって「朝敵」として征討された会津藩の“悲劇”。激動の幕末、藩主・松平容保は何を目指し、どこで挫折したのか?
詳細情報
番組内容
戊辰戦争最大の悲劇として語り継がれる会津戦争。会津藩は薩長を中心とする新政府軍の猛攻を受け、多大な犠牲を出して敗北。このときの藩主・松平容保は、激動の幕末に困難な選択を次々と迫られた。運命を大きく変えたのが京都守護職への就任。京で一橋慶喜らと共に政権の中枢を担うことに。容保が追い求めたのが、朝廷と幕府が一体となって国の難局にあたる公武合体の実現。その夢はなぜ破れたのか?“会津の悲劇”の真相に迫る。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】高橋源一郎,家近良樹,【語り】松重豊ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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- 容保
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- 天皇
- 京都
- 江戸
- 京都守護職
- 磯田
- 慶喜
- 薩摩
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
撃て~!
(砲声)
戊辰戦争最大の悲劇 会津戦争。
新政府軍の猛攻を受け 鶴ヶ城は開城。
民間人も多く巻き込まれ
戦死者は 2, 000人を超えた。
この時 会津藩を率いたのが 松平容保。
義を重んじ 幕府に殉じた藩主
というイメージが 先行する中
その実像は 意外なほど知られていない。
容保自身が 幕末について
ほとんど口を開かなかったからである。
近年 容保の素顔を伝える
貴重な史料の研究が進んだ。
容保のそば近くに仕えた 小姓の手記。
そこには 幕末動乱のさなか
主君が漏らした ある言葉が記されていた。
容保は 何を目指し
どこで挫折したのか。
容保の運命を大きく変えたのが
京都守護職への
就任。
京に乗り込み
一橋慶喜らと
政治の実権を握った。
だが 変革の嵐は あまりにも激しかった。
幕府を揺るがす 薩摩や長州の台頭。
思いも寄らぬ 長州征討での敗北。
そして 朝敵とされた 鳥羽・伏見の決戦。
容保を次々と襲った
極限の選択。
その 悲劇の真相に 切り込んでいく。
容保が 幕府の一員として
こうすべきだったっていうことが
できていればね
また 別の結果に
なったかもしれないけれども…。
それが
ものすごい大きな藩だけじゃなくて
日本の運命も変えていきますからね。
悲劇の会津藩主として語り継がれる
松平容保。
その見果てぬ夢と苦渋の選択に迫る!
♬~
皆さん こんばんは。
こんばんは。
歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択
その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。
今回は 幕末の会津藩主
松平容保を取り上げます。
今 肖像画も出ていますけれど…。
まあ 現代風で言えば…
真面目そうで 誠実そうな藩主。
この主君という看板 アイコンを掲げて
下にいる会津藩士たちは 懸命に
京都で働いたと言っていいでしょう。
そして 松平容保といえば
いわゆる 会津の悲劇という印象も
強いんですけれど
磯田さん 今日は どんなところに
注目して見ていきましょうか?
悲劇の会津藩 何々される会津藩。
例えば 天皇に かわいがられる会津藩とか
薩長に討伐される会津藩とかって
「される会津」っていうのが
多いんですね。
要するに 受け身 客体。
だけど 今日はね 積極主体で
「何々する会津」にね しっかり着目して
より深く会津を理解していきたい
という番組にしたいと思ってるんです。
つまり 受け身じゃなくて 何を この…
どんな運動法則や体質を持っていたのか
というような問題を
やっぱり 見ないとね
正しい会津藩理解にならないんだと。
もう どんどん研究進んでますので
それも可能になってきた。
ですから
会津は「ならぬものはならぬ」とか
すぐスローガンで結び付けてですね
語られがちなんですけど
最新の研究成果から 「する会津」。
そういう視点から
ちょっと今日は見たいですね。
うん。 「する会津」ですね。
では そこをポイントに見ていきましょう。
まず 容保とは 一体
どのような人物だったのか
その原点から見ていきます。
松平家 23万石の居城である。
天守閣にある博物館に
興味深い史料が残されていた。
描かれているのは
会津から遠く離れた浦賀湾。
江戸後期 イギリスの帆船が通商を求めて
来航した様子を描いたものだ。
中央には 巨大な異国船。
その周囲を取り囲むように
無数の小舟が こぎ寄せている。
よく見ると 小舟には 会津の旗印。
実は 江戸の喉元にあたる 浦賀の警備を
会津藩が引き受けていたのだ。
戦がない時代が続いておりましたので…
会津藩は 親藩の中でも
特に最前線で
徳川将軍家を守ることを期待され
代々 それに応えてきた。
藩祖 保科正之が定めた「家訓15条」。
その第1条に こうある。
大君 つまり将軍に
絶対の忠誠を尽くすことが
歴代の藩主に課せられた
使命であった。
嘉永5年 18歳の若さで
藩主の座を受け継いだのが 松平容保。
高須松平家に生まれ
会津に養子に入った容保が
まず教え込まれたのが
この家訓であった。
この教えを胸に
容保は 時代の荒波に立ち向かっていく。
時は 幕末。
京では 尊王攘夷の火が
燃え盛っていた。
導火線に火をつけたのが
長州藩。
そのねらいは
幕府の開国政策の阻止だった。
藩士を京に送り込み 異国排斥を訴え
朝廷の有力公家たちを
味方につけていった。
長州に呼応するように
過激な攘夷派の浪士が
続々と 京へ集結。
幕府に近い公家の家臣などを標的に
テロを繰り返した。
この事態に 幕府が頼ったのが会津藩だ。
新たに設けた
京都守護職に
藩主 容保の就任を
命じた。
その任務は
京に1, 000人規模の軍隊を駐屯させ
治安を守るというもの。
当然 巨額の費用も見込まれる。
家臣たちは
薪を背負って
火の中に
飛び込むようなものだと
反対の声を上げた。
都での動乱に巻き込まれることを
しゅん巡しながらも
容保は 幕府の要請に応えることを決めた。
文久2年12月
容保は会津藩兵を率いて 京に到着した。
御所から およそ2キロ。
金戒光明寺は
京都守護職の本陣が置かれた寺である。
容保が使った部屋が
当時の姿に復元されている。
ここで 容保は
京の治安回復の指揮を執った。
文久3年3月
この広間で容保と対面したのが 近藤 勇。
後に新選組となる若い浪士たちと
容保が初めて出会ったのも
この寺の境内でのことだった。
新選組の隊士たちは…
土方歳三や 沖田総司らの腕前に
期待を寄せた容保は
彼らを京の治安維持に用いた。
会津藩お預かり新選組は
攘夷派取締りに
大いに力を振るった。
守護職 会津によって
京の治安が回復に向かったことを
誰より喜んだ人物がいる。
時の孝明天皇 その人だ。
初めて謁見した際
天皇は 容保の功績を賞して
緋色の衣を下賜した。
この肖像の陣羽織が それである。
容保は 大いに感激し
守護職の任務への思いを新たにした。
だが その一方で
長州藩の動きは 過激さを増していった。
放て!
(砲声)
文久3年5月
下関海峡を通過する 外国船を砲撃。
長州藩は 攘夷派の公家と共に
更なる計画に動き出した。
孝明天皇を 攘夷祈願のために
奈良の神武天皇陵に行幸させ
そこで 攘夷戦争のための
御前会議を開くというものだった。
この計画が実現すれば
天皇の名の下に
外国へ宣戦布告するにも等しい。
対外戦争の危機が
寸前に迫った その時…。
容保のもとに
外様の大藩 薩摩からの知らせが届いた。
長州と攘夷派公家に対するクーデターに
会津藩の協力を求めてきたのである。
容保は すぐに決断。
会津藩士に
薩摩と行動を共にすることを命じた。
そして 事態を知らされた
孝明天皇からの 極秘命令が容保に届く。
文久3年8月18日
政変の幕が切って落とされた。
会津藩兵が 御所の門を封鎖し
長州に与した公家の参内を阻止。
彼らを排除した朝議で
その処分が決められた。
朝廷を牛耳っていた尊攘派公家は
官位剥奪。
御所警備の任を解かれた長州藩と共に
西国へ落ち延びていった。
尊王攘夷派は 都から一掃されたのである。
貴重な史料が残されている。
事件のあと 容保に下された
孝明天皇 直筆の和歌である。
自分の意をくんで
攘夷派追放に働いてくれた
容保の忠誠に対し
天皇は こう詠んでいる。
天皇と武士が心を合わせて
国の難局に あたっていくことを
望んだ 孝明天皇。
容保も また 朝廷と幕府が
一体となって政治を行う
公武合体の実現を
自らの使命としていくのであった。
会津藩から動乱の都へ 容保は
時代の荒波に飛び込んでいきました。
家臣の反対を押し切って
京都守護職に就きますけれど…。
最初は
容保も ものすごく抵抗してるんだよね。
普通なら えっと…
命令されれば さっと行くところを
絶対無理っていう。
でも 最終的に 「お前んとこの家訓
第1条 読んでみろ」的に言われたら
これは さすがに…。
そして 無理無理って言ってたんだけど
さすがに 通らなくなって。
だから これは
不本意だったと思いますよ。
これ やっぱり 彼の中にある
プライドみたいなのがね
大きかったんじゃないですかね。
つまり 使命感。
…みたいな そういう気持ちに
させたんだと思いますね。
それとね 私 会津が
なぜ 選ばれたか言うたら
考えたら 東北で
一番の大藩でありながらね…
幕府側にとってみたらね 一番
京都に縁がないということは
逆に言えば 京都に毒されてないという。
まあ 簡単に言えば まあ 幕末
京都来るまでの会津藩関係者はね
容保も含めてね 恐らく京都のこと
知ってないと思います。
もしね 京都の 例えば 朝廷の実情とか
そういうものに対する情報がね
かなり正確に入ってきたらね やっぱり
二の足 三の足を踏むと思いますね。
これは もう 大変厳しい選択ですね。
これ はっきり言って 会津藩
もう 既に 財政 火の車ですから
国家老からしたら 大反対ですよね。
ここで見えてくるのが…
容保は もう 朱子学で
将軍への忠誠が 根底にある。
だけど 国家老にしてみると
殿様は 一代のことで 藩は末代
お家末代ですから
ばく大な 財政支出で
藩を破綻させられないですし
国家老が考える
藩の自我 藩エゴからしたら
やっぱり 駄目なんですよ。
藩エゴ。
ただ容保にしてみると
ちょっと待てよと。
養子で 俺は ここの藩主らしい
務めしないといけないんだと。
あと もう一つ
ここが大事な点なんですけど
保科家の これ会津藩を
特徴づけてるんですけど
損得利害で政治をやるなって
こう言われて
そう行動しないといけない
とされてるわけです。
この損得利害で
政治やらなくなるとですね
損を 危ないこと平気で進駐して
京都守ったりとかいうことを
やらざるえなくなるわけですね。
会津藩と言っても やはり 容保の考え方
容保が一番大事にしているもの
あと 国家老たちが大事にしてるもの
っていうのが違うんですね この時点で。
そうですね ええ。
高橋さん どう思いますか?
直接 言葉を頂いて…
まあ 服もらったりね。
当時の容保のような 武士にとっては
何て言うか…
まあ それは もう 仕事ですから。
でもね 孝明天皇個人ですよね。
天皇ラブ。
あのね…
でも これは 必ず歴史上にいっぱいいる。
もう これは もう 何か すごい…
一種の恋愛関係みたいな。
いや もう 本当に 容保からすると
憧れの人に近づけて
もう うれしかった
っていうとこでしょうね。
いや ほかの藩主と
ちょっと育ちが違うんですよ。
美濃高須藩という小さな藩の…
お母さんも
そんなに貴族とかではありません
普通に近い人ですから。
もう雲の上の人なわけですよ
天皇っていうのは。
それで憧れも強いところへ行ってみると
本当に
向こうも期待してくれてるわけですね。
孝明天皇と容保で言いますとね
私 あの 人間としての相性がね
ものすごく やっぱ いいなと。
これだけいい関係性ってないですよ。
容保という人は 遠慮っていうか
深い… 考え方ですね。
これは 遠慮が深いなというんかな…
気がするんですよ。
それとね 反対に孝明天皇が
なぜ 長州系を嫌ったかっていうことにも
つながるんですけども
つまり 長州系の攘夷派の連中の
行動のパターンとしては
まず一つが強引である。
非常に強引というか やり過ぎですね
テロ含めて。
それから 厚かましい。
このね 正反対がね
容保じゃないかと思いますよ。
相思相愛だったということですね。
さあ あの 京都守護職として
過激な尊王攘夷派の
追放に成功した容保ですが
事態は それだけでは終わりませんでした。
失地回復をもくろんだ 長州藩が京へ進軍。
御所を舞台に
激しい戦いが繰り広げられた。
この時 容保は 禁裏御守衛総督として
御所を警護する役職にあった
一橋慶喜らと共に出陣。
長州藩を撃退した。
この結果 権力を掌握したのが 一会桑。
容保と慶喜に
桑名の松平定敬を加えた体制だ。
一会桑が目指したのは
江戸の幕府と京の朝廷をつなぐこと。
幕府が独断で
政治決定を行う
従来の幕府専制から
朝廷の意思をくんで 幕府が政治を行う
公武合体への転換を果たそうとした。
一方 禁門の変で
御所に向け発砲した長州藩に
孝明天皇は激怒。
幕府に対し 朝敵 長州を討つべしとの
勅命を下す。
この時 容保は 江戸に書簡を送り
ある建言を行っている。
それは 将軍じきじきの
上洛の要請である。
将軍 徳川家茂を上洛させ
その後も京に常駐させることで
朝廷との意思統一を図り
公武合体を
推し進めようというねらいだった。
ところが 容保の意図を阻止したのが
江戸の幕閣だった。
「容保公は
単に京都守護職にすぎない。
将軍の進退について
口を出すべきにあらず」。
幕末史を研究する 久住真也さんは
容保と幕閣の認識のズレを
次のように分析する。
これが 絶対に必要だと
考えているわけですね。
対して 江戸の幕閣というのは
当時の幕閣っていうのは…
まあ そういうふうに
認識してる人々なんですね。
ですから ここで また…
結局 家茂の上洛は見送られ
代わりに 征長総督に任命された
尾張藩 徳川慶勝の下
35藩 総勢15万の大軍が進発する。
全軍は 11月11日までに
5つの攻め口に着陣。
1週間後に
長州を総攻撃することに決した。
ところが ここで
思わぬ動きを見せたのが
薩摩藩だった。
薩摩は
会津と共に長州排除に動いたものの
その後 一会桑によって
政治の中枢から遠ざけられていた。
長州征討が成功し
一会桑の力が 更に強固になるのは
好ましいことではなかったのだ。
11月
征長軍参謀の地位にあった 西郷隆盛は
単身 岩国を訪れ
長州藩との交渉に臨んだ。
過酷な処分にも聞こえるが
西郷は
裏では この要求さえのめば
攻撃を中止させ
その後も 寛大な処分に動くことを
長州に約束していた。
長州は これを受諾
三家老を処刑し 恭順の意を示した。
ここに 征長軍は 戦うことなく
解兵することとなった。
この時期
容保のもとには 京都守護職を辞め
会津に戻ってくることを願う
国元からの要請が
度々 寄せられていた。
しかし 長州征討が一段落した
元治2年1月になっても
容保は こう返答している。
…っていう重大な問題が
残っていたわけですね。
京で自分が果たすべき使命がまだある…。
容保は 守護職留任を決断したのである。
禁門の変で 長州藩を撃退した容保たちは
京での実権を握ります。
容保たちが目指した 公武合体というのは
どういう政治
どういうことを
目指していったんでしょうか?
そうですね 孝明天皇・容保型とでも
いいましょうか この番組だから。
国政をやってく。 ほんでね…
自分たちを位置づけてるわけですね。
そのために どうやって
自分たちと 天皇を
一体化させようかっていう時に
頑張ったのが
容保の下にいる 外交集団ですよね。
会津藩公用方っていう
外交集団があるんです。
これは ものすごい秀才たち。
非常に秀才を そこへ集めてですね
孝明天皇の側近だとか
まあ 信用されてる皇族の中川宮だとか
関白さんだとか 側近公家ですね。
御用聞きして回らせる 毎日毎日。
ほいで 叡慮と呼ばれる…
切ってこいっていう。
こういう あの 情報力で 公用方が
実行支配力 暴力でもって
新選組が支配してる状態なわけですね。
それで まあ…
幕府が まあ 現実問題として
国政を担当している以上はね やっぱり…
だから 筋論から言うたら 将軍を
やっぱ 呼んでね 物事を解決させる。
それで もう一つは 江戸で
それ やらせられたら
よかったんでしょうけど…
江戸の老中たちの
かなりの人たちは
もう やっぱり 現状維持なんですよね。
やっぱ 現状維持になってくるとね
物事は いつの時代でもそうですけど
進展しないんですよね。
だから とりあえず 京都に連れてきて
そして あの 家茂将軍に
こういうことをやってもらわないと
困るんだっていうことを じゅんじゅんと
説き聞かせないといけないという
その大きな2つの理由
柱が やっぱり あったと思いますね。
しかし 私 将軍の上洛を
会津藩が進める側に回ったことに
非常に 複雑さを感じるんですよ。
朝廷の悲願は
将軍に京都に来てもらって
もう就任したら 必ず 京都へ来てもらうと
ずっといなくてもいいから
お礼ぐらいは言って帰るってことが
悲願なんですよね。
ってことは 何かっていうと…
そうすると
これは 幕府の延命のことを考えれば
家茂公は あの 孝明天皇の前へ
連れてかない方がいいっていう
判断もあったと思うんですけど…
移り変わってるわけです。
容保たちが 京都に行ってて
5年ですよね 大体ね。
だから…
だから 本当は…
ちょっと これ異常な状態の
公武合体政権。
暫定政権というか 臨時政権ができて
容保は かわいそうでね
これで ずっといくんだと
もう 政権ができたと。
でも こんなのは 暫定政権ですから
何も決まってないに等しいですね。
しかも 新選組が動いてるじゃないですか。
そうですね。
だから 新選組のやったことは
全部 会津のせいになってんですよ。
だから 会津って
どんどん評判落とすだけっていう…。
さあ 京都守護職を続ける決意をした
容保は
長州への処分を巡って
難しい選択を迫られることになります。
(銃声)
元治元年12月 長州で一大事変が勃発した。
幕府への抵抗を掲げる高杉晋作らが 決起。
恭順派との内戦に勝利し
藩の主導権を奪った。
彼らは 藩内の武装を強化。
表面上は 幕府に恭順するが
いざとなれば
戦争も辞さないという方針だった。
この動きを察知した幕府は
慶応元年4月
諸藩に次のような触れを出す。
朝廷にとっては 寝耳に水だった。
天皇は 軍事行動など
命じていなかったからである。
急遽 説明のため
参内を命じられた容保たちは
苦しい弁明を展開することになった。
征伐という表現は 穏やかではないが
実質的には 将軍が大坂へ上る
進発の意味にすぎない。
容保の言い訳の背景には
幕閣の計画をあえて利用しようという
ねらいがあったと久住さんは考えている。
これは 何としても
やらなければいけないと。
結局 朝廷も幕府の征討令を追認。
将軍家茂は 軍を率いて 江戸を出発し
大坂城に入った。
この年の11月
幕府は使者を広島に派遣し
長州での不穏な動きについて
釈明を求めた。
これに対し 長州側は
陰謀など事実無根だと弁明。
藩内への立ち入り調査も拒否され
使者は 引き下がらざるをえなかった。
どうにも不審な長州の態度に
老中が急遽上京。
一会桑との間で
対応が話し合われることとなった。
この時 長州の軍事討伐に
こだわった老中は 既に失脚し
その顔ぶれは 穏健派に かわっていた。
長州の態度には 曖昧な部分があるが
もし再度の詰問を行えば
事態が紛糾し 戦となるおそれがある。
戦争を避けるためには
藩主親子の謹慎や
領地の削減など
寛大な処分にとどめるべきだ。
これに反発したのが 一橋慶喜。
道理を曲げて 寛大な処分を下すことに
断固として反対した。
反逆者への処分が
うやむやになるようでは
幕府と朝廷の権威失墜を
天下に示すことになる。
いざとなれば 戦う覚悟で
再度使者を送り
疑惑を徹底究明すべきだ。
果たして どちらに与すべきか?
容保の心の内に分け入ってみよう。
確かに 慶喜公の言うように
筋は通すべきだ。
それには 再度 使者を派遣し
真実を突き止める必要がある。
帝も 長州に対しては
容赦ない成敗を期待されている。
ここで弱腰に出れば
諸藩にも示しがつかず
幕府と朝廷の権威が
損なわれてしまうではないか。
だが 筋目を立てて長州を追い詰めれば
彼らが暴発して戦になる可能性は高い。
そうなった場合
勝てると言い切れるだろうか?
諸藩から集めた軍は
数こそ多いが 士気は低い。
何しろ 我が会津の国元からさえ
出兵には 慎重な声が上がっているほどだ。
ここは 老中たちの言うとおり
寛大な処分で
しのぐべきではないだろうか?
容保に 困難な選択が迫られた。
不穏な動きを見せる長州に
どう対処すべきなのか
容保は 選択を迫られます。
戦を避けるため
疑惑は不問にし
「寛大な処分」で臨むか。
それとも 疑惑について
「徹底的に追及」すべきか。
まずは 家近さん どちらを選択しますか?
私は まあ あの 「寛大な処分」案をね
取らざるをえないと考えます。
長州藩というのは
本当にうまいやり方しますね。
ずるいっていうか 洗練されたというか。
例えば 禁門の変でもそうなんですけどね
要するに 自分たちの敵はね
会津なんだという
やり方するんですよ。
敵を絞るんですね。
そうするとね 会津藩としても
けんかを仕掛けられたわけですよ。
ところがね 仕掛けられた時に
それに すぐ応じたら どうなります?
つまり これは 長州と会津の私の戦い。
「私戦」といいますけどね
そういう目で見られるっていうことを
非常に恐れるんですよね。
だから 殴られかけても 反撃のね
ストレートを出せないみたいな。
それが…
それから
やっぱり 幕府の実力低下というもの。
これは もう認めざるをえない。
だって あの 大坂にいる
幕臣たちの士気の低下っていうのは
それは それは ひどいですからね
もう帰り支度してますからね。
やっぱり あの 寛大な処分で
折り合わざるをえない 不本意だけども
折り合わざるをえないということに
なるんじゃないかと思いますね。
高橋さん いかがでしょうか?
そうですね… まあ 結論からいうと
「寛大な処分」っていうことに
なるんですが。
やっぱり まあ 恐らくですね
第一次の時が もし
リアルな戦争問題として 考えるなら
その時に
長州を討つチャンスがあったのに
その時機を逃してしまってる
双方の戦力 それから まあ 士気の問題
それから あの いつ どういうふうに
動くか 全く分からない 薩摩の動き。
長州方の近代装備等々を見てもね
まあ ほぼ確実に
負け戦が見えてる時には
これは ちょっと無理だろうと。
まあ 僕が容保だったら
そうすると思います。
さあ 磯田さん お二人とも
「寛大な処分」を選択しましたけれど
磯田さんは どうでしょうか?
私は あえて 「徹底的に追及」を
考えたいと思います。
そうですか。
えっと なぜかっていうと
寛大な処分をやってれば 早晩 長州は
反徳川の根城になって
次々に 徳川をやっつける浪人
まあ 会津藩からしたら
テロリストですけど。
テロリストの温床化していって
やっかいなことになる。
今のうちに
長州藩を無毒化しとかないと
大変なことになると考えます。
それで
どうやるかっていうんですけど
これはね ありがたいことに
萩という非常に攻めやすい
海のそばに お城を築いてるんで
まず これ 幕府海軍を
萩へ突入させてですね
長州の萩城の天守閣へ向かって
砲撃を行って 天守閣を破壊します。
ほいで 御殿は もうボコボコにします。
それで さっきの
家近先生がおっしゃってた 敵の限定。
高杉たち
木戸たちの首を差し出してください。
長州の社稷 つまり 毛利家の代々も
お守りいたしますって言ったら
そりゃ 門閥の人たちが
高杉たちを付け狙い始めますよ。
まさか あの 幕末に 軍師 磯田の論調が
出てくるとは思いませんでしたけど
家近さん いかがですか?
今の磯田さんの案については。
あのね 私ね
まあ 非常に面白いと思いますね。
ちょっと追加しますとね もう この時は
亡くなってるんですけど 禁門の変で
久坂玄瑞っているじゃないですか。
有名な下関海峡を通過していた
アメリカ商船とか
軍艦に対する砲撃事件も あれ
長州藩がやったというよりも
どちらかというと 久坂玄瑞の一党が
やったみたいなとこが
一派がやったみたいなとこ
あるんですよね。
だから 磯田さんも言われたように
割と こう 個人的なね 形で
動いてるのがいるんで
その辺を 本当は きちんと
罪状を こう 問い詰めてくとね
また様相が
変わったかもしれませんね。
長州藩じゃなくてね
その長州藩内の特定の人間をね。
さあ 果たして 容保の選択は
どちらだったんでしょうか?
容保の選択を伝える記述が
越前藩の記録に残されていた。
「長州問題を巡って
一橋と老中は
一旦決裂したが
その後 会津と桑名が
とりなしたことで
両者は 再協議することとなった」。
会議が物別れに終わると
容保が動いていた。
慶喜に じか談判
老中との再協議を説得したのだ。
容保の選択は
長州に対する「寛大な処分」だった。
改めて開かれた会談で
処分案が合意された。
この条件をのめば
長州を朝敵とはしないという内容だった。
慶応2年2月
この処分案が 長州藩に渡される。
返答の期限は 5月29日までとされた。
しかし この時 容保の知らないところで
歴史は大きく動いていた。
長州は 処分を断固拒否し
徹底抗戦の意思を固め
薩摩もその支援を確約していたのだ。
当然 返答期限に
長州の返事が届くことはなかった。
幕府の面目を潰されたことに 慶喜は激怒。
孝明天皇から長州征討の勅許を引き出し
開戦に踏み切った。
もはや 容保に止めるすべはなかった。
(砲声)
慶応2年6月
第二次長州征討の戦端が開かれた。
薩摩の援助で入手した 最新式の武器が
幕府軍を圧倒していく。
実は この戦いには
精強を誇る会津藩兵が投入されていない。
容保は この戦が 長州と会津の私戦と
受け取られることを危惧し
出兵に踏み込めなかった。
しかし その後 会津兵を欠いた幕府軍は
各地で 連戦連敗。
戦局を好転すべく
容保はついに出陣を決意する。
だが 予期せぬ事態が待ち受けていた。
将軍 家茂が 大坂で病死したのである。
後を託された慶喜は
容保の必死の説得にも応じず
戦を続けることを断念。
第二次長州征討は 幕府の敗北に終わった。
そして 更なる事態が 容保を襲う。
この年 12月
孝明天皇が崩御。
これを きっかけに
まるで崖を転げ落ちるように
容保は 予期せぬ窮地へと
追い込まれていった。
慶応4年1月3日
会津は 徳川慶喜を擁する
旧幕府方として
薩長を中心とする
新政府軍と戦火を交えた。
火力の差は 歴然だった。
そして
新政府軍が戦場に錦の御旗を掲げると
朝敵に名指しされた慶喜は
戦意を喪失。
海路 江戸へと帰ってしまう。
傍らには 容保の姿もあった。
近年 この時の容保の様子を記した
貴重な史料の研究が進められた。
容保の会津藩主 就任以来
そのそば近く仕えた 小姓の手記である。
家臣に ひと言も告げず
戦場を離脱した 容保に対し
忠之助は こう記している。
決死の逃避行の末
江戸に たどりついた忠之助は
主君に拝謁し そのことを諫言した。
容保は ただ こう返したという。
朝敵とされた会津は
新政府軍の猛攻にさらされた。
2, 500発もの砲弾を撃ち込まれ
鶴ヶ城は開城。
老人や女性
子供にまで多くの犠牲者を出し
会津戦争は終結した。
鶴ヶ城の程近くにある庭園 御薬園。
降伏の後 死罪を免れた容保は
明治に入ってから数年間を
この地で過ごした。
公武合体の実現を ひたむきに追い求め
夢破れた容保。
その思いを 子孫の松平保久さんは
こう推測している。
これは まあ 私の家だけなのかも
しれませんけれども
父も 亡くなった先代の父も…
とにかく 容保公は…
会津戦争から 25年。
容保は 59歳で没した。
その なきがらは
会津の山中で静かに眠っている。
長州に対して
寛大な処分を求めた容保でしたが
結局 第二次長州征討
そして その後の戦いへと
引きずり込まれていってしまいました。
ここで改めて 容保の選択について
考えてみたいんですが
高橋さん あの 「寛大な処分」の選択を
容保はしましたが
どう評価しますか?
ねえ。
いや つまりさ…
だから まあ あの 英雄の選択肢史上
最悪の選択っていう。
まあ あの でも これはね あの やっぱり
容保だけの問題ではなくて
これは どうしても慶喜との
やっぱり 関係ですよね。
容保が まあ その幕府の一員として
こうすべきだったっていうことが
できていればね
また 別の結果に
なったかもしれないけれども
やっぱり これは
最高責任者は 慶喜ですので。
僕ね…
それはね
たった一つの前提を おいては。 何か。
孝明天皇がずっと元気でいるという前提で
策を打つならば
会津藩がやってきたことっていうのは
要するに
将軍と天皇が一緒に京都にいて
それで 連合的な政権 将軍の特権的地位
っていうのは 認めながら
有力大名が下に来てっていう
まるく収まる体制って
ありえたと思うんですよ。
でも…
中には 将軍 更地にしたいっていう
薩長の中の
一部の人たちまでいるわけで
その中で 孝明天皇のご健康だけを
前提とした 公武合体構想で
一本やりでいったっていうことは
非常に危険だったってことが
分かりますね 今になって考えたら。
容保だけじゃなくて まあ 会津藩ですね。
会津藩が一番 まずかったというのが
まあ どうしても
言っておかないといけないのはですね
やっぱり あの…
そのために 有力藩を含めた…
これが やっぱり 私 結論といえば
最終的には やっぱり
会津が敗者になっていく
大きな原因だと思いますね。
まあ 実際には 実現しなかったので
幻の公武合体ということに
なるんですけども
可能性があったばかりか
もしかしたら…
つまり まあ 天皇も
まあ 将軍も 雄藩も それぞれでいて
割とデモクラティックな。
そうすると 明治維新の性格
変わったんじゃないかっていう
気がするんですよ。
僕は この え~っと…
実現した 公武合体型の明治維新政権を
見てみたかったですね。
最後に磯田さん
今回は 松平容保が主人公でしたけれど
いかがでしたか?
そうですね。
やっぱり 先ほど
家近先生がおっしゃってたように
有力諸藩の欲望っていうことを
これは 私
実用の醜さだと思うんですけど…。
要するに 政治に関わりたいうちの藩が
高い政治的地位を詰めたいって いろいろ
権謀術数でやってくるわけですよ。
だましたり。 いろんなことを
したたかなこと してくるわけですよ。
これは まあ 実用の醜さですよね。
それで やっぱり つくづく思うのは
容保と会津というのは
これは 朱子学の芸術品ですね。
しかも ガラスのね。
ああ 繊細。
それで そのガラスがバラバラになって
キラキラ 日に光ってる様子を
また我々は 美しいものとして
その 壊れようを眺めてるような
気がしましたね。
だけど 実際には…
天皇も将軍も みんなが奉ってくれてって。
損得でない政治って
家訓で言われてるからったって
やっぱり それはね 夢なんでね。
あの 政治っていうのは
2つありますよね。
理想を掲げるっていう問題と
実際には あの 欲得ずくで
損得勘定で 来ますからね。
この実用の醜さっていうものと
観賞用の美しさっていうものの
この兼ね合いを
どのように取るのかっていうのは
一つに政治だけじゃなくて
我々の人生 そのものに
問われてる問題のような気がしましたね。
皆さん 今日は ありがとうございました。
(3人)ありがとうございました。
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