出典:EPGの番組情報
先人たちの底力 知恵泉「承久の乱 “武士の時代”の確立」[解][字]
後鳥羽上皇が鎌倉幕府に戦いを挑んだ承久の乱。迎え撃つ北条義時と御家人たち。勝敗を分けたものは何だったのか?武士の時代を確立した戦から、巨大な敵と戦う知恵を探る。
番組内容
初の武家政権となる鎌倉幕府。しかしその初期は、朝廷と幕府が、全国を二分してその勢力をせめぎあう、不安定な時期でもあった。その状況に終止符を打ち、“武士の時代”を確立した戦が、1221年に起きた承久の乱。幕府に戦いを挑む後鳥羽上皇、そして迎え撃つ北条義時と御家人たち。勝敗を分けたものとはいったい何だったのか。朝廷と幕府の関係を決定的にした乱を通して、巨大な敵に立ち向かうための知恵を探る。
出演者
【出演】佐々木則夫,福田麻貴,帝京大学准教授…佐伯智広,【司会】新井秀和ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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- 京都
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
貴族から
武士へ。
時代の主役が交代した12世紀。
源頼朝を中心に 鎌倉に幕府が開かれ
日本初の武家政権が誕生しました。
「これで武士の世になった」と
思っている人もいるかもしれませんが。
現実は そんなに簡単ではありません。
鎌倉幕府が
当初支配していたのは日本の東半分。
都に近い畿内から西は
いまだに
朝廷や貴族たちが支配していました。
武士の世は いわば
まだ半分しか完成していなかったのです。
では…
鎌倉幕府誕生から およそ30年後
ある乱が起こります。
朝廷の勢力が武士から
主導権を取り戻そうと起こした この戦。
中心人物は…
受けて立つ鎌倉幕府は…
集団の力で巨大な敵を退けました。
武士の世を確立した承久の乱。
武士たちは どんな知恵で
勝利をつかんだのでしょうか。
鎌倉武士の知恵を読み解くのは…
現在は 女子プロサッカーチーム
大宮アルディージャVENTUS総監督として
個性豊かな選手たちをまとめています。
強い敵に立ち向かうためには
どのように力を結集すればいいのか
戦うリーダーの知恵に迫ります。
皆さん 今日も
ご来店ありがとうございます。
いらっしゃいませ。
お待ちしておりました。 こんばんは。
福田さん 今日のテーマ
「鎌倉時代の承久の乱」
ということなんですけど
鎌倉時代がお好きと。
「いい国つくろう鎌倉幕府」は
知らない人いないくらいの
語呂でしたから。
みんな知ってますよね。
そうですね。
定番の語呂合わせだと思うんですけど
実は 最近 あんまり言われないんですね。
そうなんですか?
何でかっていう話なんですけど
1192年っていうのは 源頼朝が
征夷大将軍に任命されましたと。
それが 鎌倉幕府のスタートとして考える
考え方が昔はあったんですけど
最近は それに対して
いやいや そうじゃなくて
1183年に 源頼朝が 日本の東半分を
管理するのを任された時の方が
いいんじゃないかとか。
1185年に
頼朝が全国に守護地頭を置くことを
認められた時の方が
いいんじゃないかとか。
なるほど。
幕府って 今までなかったものなので
一体 これが どうなるのかっていう
ゴール地点を
まだ誰も分からない状態で
手探りで組織を作ってるから。
つきあおうって告白せずに
つきあったカップルが
記念日って あれ どのデートが
記念日なんかなみたいな。
じゃあ 初めてデートした時に
しとこうかとか。
そこが記念日にしようかっていう
そういうことなんですかね。
似てるところはある。
なるほど。
先生 その まあ 武士の時代っていうのは
まだ 何て言うんですか…
そうですね。 1183年にしても
85年にしても 92年にしても
どれも共通してるのは 源頼朝が
朝廷から何かを認められた
っていうことなんですよね。
ということは つまり…
そうした中で起こったのが
鎌倉 武士たちがね 朝廷と戦った…
当時も 武士たちをまとめ上げて
戦っていったわけですが
今 選手たちをまとめるっていう
お立場でもある中で
組織を作る中で大変なことっていうのも
あるんじゃないですか?
そうですね。 やっぱり…
…するということをやはり理解させながら
やはり やっていくということが
まず一番でしょうね。 そういう意味では
僕がいたところの なでしこジャパンは
バランスがよかったし
経験のある選手も多かったので
あまり 指揮官が
ああせい こうせいというよりも…
大きな戦いのところの時には
そういうふうなチームにしておく
ということが一番 大事ですね。
さあ 今日はですね こういったメニューを
ご用意いたしました。
こちらでございます。 ドドン。
実際あるんですよ。
本当ですか。
こういうものでね。
あっ 鮭とばですか? これは。
そうです そうです。
鮭とば5つとカツ2つ。
で…
どうですか 何点ぐらい?
これは…
佳作ですね これは。
佳作賞…。
佳作って こう 微妙ですよね。
何かこう うれしいんだか
うれしくないんだか分からないっていう
この 何て言うんでしょうか。
努力だけが すごい伝わってくる。
伝わってきますよね。
あっ そうですか。
でも 後鳥羽上皇に勝つ
っていうことなんですよね?
そうなんですよ。 ということでですね
今日は 後鳥羽上皇に勝つぞと。
鎌倉の武士たちが まず立ち上がるまでを
見て頂こうと思います。
朝廷と幕府が真っ向から激突した戦い
承久の乱。
その首謀者だったのが…
現代では 「新古今和歌集」を
編さんした人物として知られており
さぞかし みやびな人かと思いきや…。
馬に乗りながら弓で的を狙う「笠懸」や
「相撲」などが得意という武闘派な一面も。
そして 非常に怒りっぽい性格で
気に入らない人物は
やたらと処罰したそう。
そんな後鳥羽上皇には
ある悩みの種がありました。
日本初の武家政権として誕生した
鎌倉幕府です。
武力を背景に出来上がった鎌倉幕府は
朝廷の意に沿わないことも多く
後鳥羽上皇でさえ
顔色をうかがう必要があったのです。
建保6年のある日。
後鳥羽上皇のもとに
幕府から意外な申し出がありました。
三代将軍 源実朝の後継者を
天皇家から迎えたいというのです。
実朝には子どもがいなかったため
後継ぎに困った幕府が
上皇を頼ってきたのです。
実は 幕府内では
将軍の後継者や政治体制を巡って
御家人たちの間で内紛が続いていました。
そこで 天皇家の人間を将軍にできれば
その権威によって 政治が安定し
幕府も発展すると考えたのです。
これは 後鳥羽上皇にとっても
チャンスでした。
そこで 上皇は将来的に…
しかし そんなある日。
なんと 実朝が
突然 暗殺されてしまったのです。
犯人は 実朝の甥。
後継者争いが原因とされています。
実朝の死に焦ったのが
幕府の有力者だった北条義時でした。
実朝の死によって 初代 頼朝から続く
源氏の血筋が絶えてしまったのです。
源氏という
絶対的な存在がいなくなった今
政治体制に不満を持った御家人たちが
反乱を起こしかねません。
義時は 後鳥羽上皇に対し
約束していた実朝の後継者を
早く送ってほしいと催促します。
しかし こんな返答が…。
上皇は
約束に応えようとしなかったのです。
それだけではありません。
摂津の国にある
荘園の地頭職を解任するように
幕府に要求してきました。
後鳥羽上皇は 実朝亡きあと
幕府が自分の命令に従うかを判断するため
揺さぶりをかけてきたのです。
これまで息を潜めていた巨大な存在
朝廷が ついに牙をむきました。
鎌倉の武士たち 一体 どうする?
そこで…
要求を受けた義時は
すぐに 姉の北条政子や
ほかの御家人たちに相談します。
どうするべきか議論を重ね
出した結論は…。
NO!
日本中世史を研究する関 幸彦さんは
この時の武士たちの判断の理由を
次のように考えています。
鎌倉幕府に仕える武士を
「御家人」と呼びます。
将軍と御家人の主従関係は
「御恩と奉公」というもの。
将軍は 御家人を地頭に任命することで
土地の所有権を認めたり
新たな土地を与えたりします。
この「御恩」に対して 御家人たちは
戦に参加するなど「奉公」を行うのです。
認められた権利は 半永久的で
罪を犯すなど 本人に落ち度がない限りは
変更しないというのが
幕府内の決まりでした。
義時からNOを突きつけられた
後鳥羽上皇。
なに~!
思いも寄らない返答に
上皇は怒りに震えます。
そんな時 追い打ちをかけるように
後鳥羽上皇を刺激する出来事が。
なんと 京都にいた幕府の御家人が
謀反騒ぎを起こしたというのです。
上皇は すぐに これを鎮圧しますが
その時の…
命令にも従わず 問題ばかり起こす
幕府の武士に対して…
我慢の限界に達した後鳥羽上皇が
ついに幕府との決戦に向け動き出します。
まず…
寝返らせ 味方に引き入れていきます。
真っ先に 上皇側についた一人が
三浦胤義という御家人でした。
胤義は 上皇に従うことを拒否していた…
承久の乱が始まりました。
次の一手として 後鳥羽上皇は
鎌倉の御家人たちに
北条義時を討ちとらせようとします。
早速 その日のうちに
北条義時追討の命令書 院宣を発し…。
それを持たせた押松という使者を
鎌倉へ向かわせます。
上皇は 御家人たちが自分に従い
義時を討ちとるはずと考えていました。
特に期待をしていたのが
鎌倉の有力御家人の一人 三浦義村。
上皇側についた三浦胤義の兄でした。
三浦胤義も 兄 義村は
上皇に味方するに違いないと断言。
ここから崩していく作戦でした。
弟の使者から上皇の命令を聞いた
三浦義村。
その場で返事はせず 使者を帰らせます。
義村が 次にとった行動は…。
真っ先に
幕府の北条義時に報告したのです。
三浦義村は 弟には味方せず
北条義時に忠誠を尽くすことを
誓いました。
しかし なぜ 三浦義村は…
三浦義村は…
上皇の命令よりも 幕府と御家人の
「御恩と奉公」という関係を
重視したと考えられます。
知らせを受けた義時は
すぐに対応に動きます。
使者を捕まえるように命令。
そして 義時追討の命令が出ていることを
知らされた御家人たち。
彼らも 三浦義村と同じように
上皇に従おうとはしませんでした。
思いは ひとつでした。
そして 御家人たちの決断の
最後の一押しとなったのが
あの有名な北条政子の演説です。
「心して聞きなさい」。
政子は 今の自由な生活は
幕府があるおかげだと
御家人たちに訴えたのです。
政子の演説を聞き 御家人たちの
幕府を守りたいという気持ちは最高潮に。
そして
思いをひとつにした鎌倉の武士たちは
力を結集し 巨大な敵 後鳥羽上皇と
戦うことを決めたのです。
いや~ やっぱ どの時代も
このチームワークとか
士気の高さっていうのが
すごい大事なんですね。
私も御家人だったらですね
政子さんのスピーチは
すばらしかったですね。
ジーンと来ましたよ。
佐々木さんは 選手の皆さんに
どんな言葉をいつもかけるんですか?
意外にね 僕がね そういうようなね
ポイントの言葉というよりも…
本当に ワールドカップ優勝した時に
予選で言う第3戦にね
0-2でイングランドに負けて
今まで一度も勝ったことのないドイツと
開催国のドイツとやらなきゃいけない
っていうところが 動揺しますよね。
でも そこで…
あら。 それは…。
澤さんと その時にですね まだ…
1試合も まだ出場していない
ゴールキーパーの
山郷選手もいたんですね。
その2人で いろいろ
考えたんじゃないでしょうか。
山郷さんがですね…
…っていうような言葉が出てきてですね
そこで ちょっと大丈夫かなみたいな
気持ちがですね
もう 解消された感があって。
僕も解消されましたね。
あら。
佐々木さんも その言葉に胸を打たれて。
それで ドイツと戦って
なんと延長にですね
丸山桂里奈さんの決勝ゴールで勝ったと。
選手間の中で そういうようなね
志が通じて 戦えたっていう。
すごいですね。
そうですか。
さあ そして あの ここのね VTRで
鍵となる2人が出てきましたよね。
三浦兄弟。 こちらなんですけど…。
お兄さんの義村と弟の胤義と
敵味方で分かれることになったと。
弟の胤義は都に出て
後鳥羽上皇に仕えて
検非違使といって 武士が就く
警察官のようなポストなんですけれども
それに任命されることで
貴族社会のランク付けで言えば
もう お兄さんをしのぐような立場に
胤義は出世をしてしまったんですね。
なので 胤義にしてみたら
朝廷に対して恩義を持つし
自分の思いを伝えれば
兄だって分かってくれるはずだと。
でも 義村 兄の方からしたら…
そういう葛藤が生まれて 最後は…
どっちも 一応 いわば
自分の道は正義と思って
選択してるわけですもんね。
そして 後鳥羽上皇としてはですね
呼びかければ 武士たちは
朝廷側につくっていうふうに
ちょっと踏んでたところもある
っていうことなんですかね。
もちろん そう思ってて
それが まあ 結果から言えば
大誤算だったわけですけど
でも そもそも考えてみたら
話の持っていき方がまずいですよね。
これだけの大ごとを 当日 いきなり
こういうことをやるから従えって
いきなり言います?
言わないですね。 何か やっぱり
事前に根回ししませんか?
いきなり 北条義時を倒す兵を挙げたと。
挙げたから ついては 俺に協力しろって
言われても
いや そこ… 「それ裏切るの?」っていうね
ちゅうちょは 絶対生じますよね。
まあ そこのところで 結果的に
幕府の方に 御家人たちは みんな
ついてしまったということですよね。
やっぱ 朝廷のね ネゴシエーションと
ねえ
鎌倉幕府の長たる者のネゴシエーション
全然違いますもんね。
やっぱり…
ここの知恵がね…
どうなんでしょう 一般的に
組織のトップに立つ人間っていうのは
みんなをひとつに 総力戦でまとめるには
何が必要だと思いますか?
誠実に やはり 選手たちというか
行動する人たちを見据えながら
みんなが やっぱり幸せになるとか
みんなが一緒に価値観が味わえるとか
そういう思いが
やはり 指揮官があるかないかっていう
ところなんじゃないでしょうかね。
中には レベル差みたいなのもあって
なかなか ついていけない人も
いたりしますよね?
なでしこの場合は
全員攻撃 全員守備で戦わなければ
やはり 我々のチーム色が上がらないんだ
ということを合言葉にやりながらも
ちょっと フォワードの選手が
いや 守備の部分もやると
攻撃の点を取るのに
ちょっとロスがあると。
だから ちょっと休ませて
っていうようなことを
みんなと融合してればいいんですけど
融合しないで
そういうことをやった時に
やっぱり バラバラになってしまう傾向が
あったりしますよね。
でも 目標は この選手も優勝するために
それが大事だと思ってるので
決して チームの目標値は
失ってないんですけど
その時は やっぱり みんなで もう一度
志の目標
自分たちがやらなきゃいけないことを
しっかり見つめ直して
やっぱり 修正するということ。
なるほどね。 福田さんは
ふだん 3人の思いを
ひとつにまとめてらっしゃるような
気がするんですけど。
私も 結構 士気が上がってるか
下がってるかって
結構 敏感に感じ取っちゃうタイプで。
誰かすっきりしない人いるなみたいなのを
すごい感じ取っちゃうんで
もう それがおっきくなる前に
ちっちゃい段階で
ちょっと話しかけて
で 本当 納得いくまで話し合いをして
解決するっていうのは
一応 心がけてはいます。
そういうところ すごく大事だと思う。
特に大勢だったら
まだしもっていうところもあるし
逆に3人だと直面しますもんね その…。
そうですね。
仕事のね パフォーマンスにも関わるし
空気感が
やっぱり楽しい方がいいじゃないですか。
ちょっとでも どんよりすると
すぐ伝染しちゃうんです。
3人だと少ないから。
だから ちょっとでもハッピーに
できるように考えてます。
人数に関わらず
思いをひとつにするっていうのがね
いかに大切かっていうのが
分かってきましたけれども
まあ そんな思いをひとつにした
鎌倉武士たちが
いよいよ 動き出すということに
なるわけなんですね。
ご覧頂きましょう。
後鳥羽上皇が いきなり仕掛けてきた
武士たちへの挑戦。
自分たちの生活を守るために
朝廷の圧力に屈せず
断固戦うと腹をくくったまでは
よいとして…。
実際に どう戦えばいいのか。
将軍が不在のこの時代。
幕府の意思決定は
有力御家人たちによる合議制で
行われていました。
圧倒的多数の意見は
「足柄・箱根
2か所の関所で
迎え討つ」という
作戦でした。
朝廷という存在に対して まだ畏れ多い
という意識が残っていた武士たち。
なるべくなら穏便に済ませたい
という気持ちもあったかもしれません。
しかし そんな態度に対して 敢然と
「NO」を突きつけた人物がいたのです。
鎌倉の武士たちが
箱根で朝廷軍を迎え撃つという
いわば
守備重視の消極策をとろうとする中…。
一人 反対する者がいました。
大江広元という人物です。
広元は 東国の武士ではなく
京都の官僚の出身でした。
鎌倉幕府においては 異色な存在ですが
北条義時も 広元の経験や知識を
高く買っていました。
幕府において 北条政子・義時に次ぐ
ナンバー3の重臣となっていたのです。
「吾妻鏡」は この時の広元の言葉を
伝えています。
さすがは 大江広元。
東国武士の長所も短所も
知り尽くしていました。
勢いに乗って攻める時は
無類の強さを発揮するが
長期間 守勢に回れば
つけいられやすい。
でも 慎重な北条義時は 最後に
姉 政子に判断を仰いだといいます。
政子の考えも同じでした。
「速やかに京都に進撃しなさい」。
ひとたび 方針が決まると
鎌倉幕府の動きは素早いものでした。
上皇の院宣を押収した わずか3日後の…
第一陣は…
しかし この日のうちに
三浦義村 足利義氏などの有力御家人が
後に続くと…。
「それ 後れを取ってはならぬ!」
とばかりに
御家人たちは 続々と京へ向かい始めます。
最終的に
総勢19万騎もの兵力に膨れ上がったと
「吾妻鏡」は伝えています。
東海道 北陸道 東山道の3つの経路で
京都へ向かう武士たち。
勢いづいた彼らから
朝廷を討つという迷いは
完全に吹き飛んでいました。
一方 都の後鳥羽上皇に 「東国の武士が
攻めてくる」との知らせが入ったのは
武士たちが出発した4日後の…
えっ!
後鳥羽上皇は動揺しました。
鎌倉側が 自分に刃向かってくるとは
全く想定していなかったのです。
慌てて 西国から徴兵しようとしたものの
とても間に合いません。
緒戦で負けた朝廷軍は
6月13日 宇治川の最終防衛ラインで
幕府軍を迎え撃ちました。
翌14日 勢いに乗った鎌倉武士たちは
激しい流れの川に果敢に飛び込み
多くの犠牲を出しながらも 朝廷軍を撃破。
勝敗は決しました。
大江広元が読んだとおりに
何もかもが運んだのです。
15日。
後鳥羽上皇は降伏を申し入れました。
自らまいた種とはいえ
その代償は高いものでした。
後鳥羽上皇 土御門上皇 順徳上皇は流罪。
幼い仲恭天皇は
廃位されました。
北条義時は
こうして後鳥羽上皇の直系を追放し
後堀河天皇を即位させました。
また 六波羅探題という幕府の機関を設置。
北条家の一族が 常に
朝廷を監視下に置くようになりました。
畿内や西国を支配していた朝廷に
勝利したことで…
武士の力が朝廷を上回った承久の乱。
この勝利によって…
今 こうやって見ると 歴史の中でも
かなり大きい
ターニングポイントですよね。
子どもの時から 「いい国つくろう
鎌倉幕府」とかばっかし聞いてたんで
こんな大事だとは知らなかったです。
戦いの決め手っていうのは何だった?
御家人たちは 源実朝の後継者問題の時に
後鳥羽上皇が地頭の問題を
交換条件として出したことを
知ってるわけですよね。
その上で 後鳥羽上皇が
鎌倉幕府を牛耳ったらどうなるのかと。
自分たちの権利を守ってくれる
地頭の制度は
結局 骨抜きにされてしまうだろうと。
危機感があるわけですよね。
その状況で 政子に 私たちは
御家人の権利を守ってきたじゃないか
というふうに言われると
みんな そうだよなっていうふうに
ひとつにまとまれる。
それと もう一つは やっぱり
後鳥羽上皇側の作戦 指揮の問題ですよね。
逆らうはずがないと
思い込んでたというか。
鎌倉のリアルは知らない。
自分が知ってるのは 自分に仕えて 自分に
いいことをしてくれる武士たちだけだと。
SNSがあったら
全然違うかったでしょうね。
そんなことができないから 本当に…
でも これは 何か いつの時代でも
ありそうですよね。
そうですよね。 企業とかでも 何か
すごい まだまだありそうですよね。
ワンマンな社長がいるから
そこについてくる社員しかいなくて
なかなか成長しない会社とかも
全然ありそうですよね。
これで もう揺るがない体制が確立された
っていうことなんですよね?
承久の乱の結果 鎌倉幕府は
天皇を交代させてしまうんですよね。
そうすると 朝廷が じゃあ
次の天皇を誰にしましょうかという
人選をする時に…
もう まさに ここからが 本当の…
そして ここの知恵が…
佐々木さん やっぱり 戦う上での勢い
っていうの これ大事ですよね?
そうですね。
本当に 明日の戦いのメンバーを
どうしようかっていった時に やっぱり…
やっぱ その勢いというものを
大事にしていくっていうことも
もちろんありますよね。
メンバーを決める時っていうのは
技術だけじゃなくて 今日のメンタルとか
見ながら選ぶんですか?
そうですね。 控えの選手なんかは
特にそうですけども
本当 この子 すごい生き生きとしてるな。
「私を出して 明日」ってぐらいな動きとか
そういうのをしてる子もいますからね
実質的には。 この子に スタメンで
まず かけた方がいいんじゃないか
なんていうこともありますでしょうし。
やっぱり 去年1年は すごい もう
自分で言うのもなんですけど
やっぱり 勢いに乗ってたなって…。
2020年。
10年間 夢みてた仕事 全部
1年でかなったんです。
全部 1年の中に凝縮されたみたいな。
やっぱ それも 一段落つくものなので
その去年1年に出し切れなかったことも
たくさん 自分的にはあるんで
次のチャンスを待って
次の また乗れそうな波を待って
3人それぞれ ちょっと蓄えようかな
みたいな感じですかね 今は。
なるほどね。
そして ここのね 承久の乱
もう一つ 見えてきたのが
アウトサイダーの視点の大切さ
っていうものも
あるのかなっていう気がするんですけど。
大江広元 何でアドバイスができたのか。
やっぱり 彼のバックボーンは
京都の官僚出身で
そこから
源頼朝のところに身を投じて
幕府の人間に関わってきたっていう
存在なんですよね。
その彼から見た時に まず後鳥羽上皇の
とった作戦がどう見えるか。
で その後に…
…っていうのは 別に 後鳥羽上皇だけの
行動パターンじゃなくて
それが
基本的な朝廷のやり方なんですよね。
それを当然
大江広元は経験して知っている。
なった時に…
で もう一つは 私は 京都を捨てて
幕府に身を投じた人間だと。
もう この幕府と共に戦って
今回 勝つしかないんだと思ってる。
でも 御家人たちは
自分たちの先祖伝来の土地もあると。
で もしも ここで…
実際 そのとおりになって
武士じゃない人間が
積極策を言うって
ものすごく勇気はいると思いますし
そういう人材を生かすことができた
鎌倉幕府っていう面もありますよね。
人材を生かすね。
どうでしょう
一歩引いた目線からのアドバイス。
私たちで言うと すごいネタ合わせは
盛り上がってる時っていうのが
あるんですよ。
ゲラゲラ笑いながらやってる時に
一回 目 覚めるというか
おっ ちょっと待て
これ 果たして面白いのかみたいな。
身内ノリになってないのかみたいな。
意外と ネタ合わせで 自分たちが
ゲラゲラ笑いながらやったネタって
舞台に出すと受けないっていう。
そういう時に 私たち3人いるから
誰かが 「大丈夫か これ」って
気付くっていうのが 結構大事なのかなと。
だんだん ネタが仕上がっていく
みたいなことはありますね。
私と ちょっと一歩離れた状況で
客観的に見て頂く立場の方が
いらっしゃるんですけども。
そんな時に やっぱり この方がですね
やはり こう
どうして あの子を使うのが
そんなに遅いのかなとかですね
いろんな こう 戦略的な要素も含めて
アドバイスしてくれる。
常にじゃないんですけど
本当に 節目節目のところに
言って頂くこと自体がですね
いいポイントをついてるなと
感じますけどね。
あと 最近 選手に伝えるギャグ ちょっと
鈍ってるぞとかも言われましたけどね。
(笑い声)
そんなアドバイスまで。
そんなことも。
いや 今日はね その武士の時代を確立した
という承久の乱 見てまいりましたけど
全体を通して 福田さん いかがでしたか?
えっ もう終わりですか?
ええ。 ちょっと…。
もうちょっと話してもいいんですけど。
あっという間でした。
もう一個 Vあるんかなくらいの感じで
楽しくなっちゃって。
いや~ 学ぶところが
たくさんありましたね。
でも やっぱ 士気の高さ 勢いって
数値化できないことじゃないですか。
感情なんで。
でも その数値化できないことが
戦いとかに すごい重要な役割を
示してるんだなと思って。
コントロールできそうで
できないところの部分が
すごい重要なんだなと思いましたね。
この場合 本当に 奇跡的にと言っていいと
思うんですけれども
やるべき人たちが 自分の役割を果たして
鎌倉幕府側ですよね。
そういうふうに…
見事に幕府軍の勝利として
完結したっていう
本当に珍しいケースですよね。
なかなか やっぱり
ここまでの成功例っていうのは
歴史上でも見られない。
武士の この流れを見た中で
すごく僕自身も
改めて ためになりましたし
本当 そういう意味でも
今の社会においても
もう本当に…
配下っていうかね
使ってる 組織をしてる長たる者が
やっぱり 下にも しっかりと
思いを込めてやることが
この時代においても
やっぱり 成功してるというところも
僕自身も そういった思考の中で
やっていかなきゃいけないなと
勉強になりました。
また ぜひ 遊びに来て下さい。
ご来店 どうもありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
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