出典:EPGの番組情報
先人たちの底力 知恵泉「生活を支える新サービスを!小倉昌男」[解][字]
コロナ禍の今、生活に欠かせない「宅配便」。このサービスを生んだ経営者・小倉昌男は、社内の反対、新システムの構築、国の規制など数々の困難をどう乗り越えたのか。
番組内容
コロナ禍の今、必要なものを家まで運んでくれる「宅配便」は、私たちの生活に欠かせないものになっている。約50年前、このサービスを生み出したのが、運送会社の経営者・小倉昌男だ。しかし、その誕生は苦難の連続。社内の反対、新たな物流システムの構築、そして国の厳しい規制…。次から次へと立ちはだかる壁を、小倉はどのように乗り越え、新サービスを実現したのか。その発想の源や、困難に立ち向かう知恵を学ぶ。
出演者
【出演】編集者・記者…村上富美,塚地武雅,神奈川大学名誉教授…中田信哉,【司会】新井秀和ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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キーワード出現数ベスト20
- 小倉
- 会社
- 宅配便
- 荷物
- 運輸省
- サービス
- 非常
- 個人
- 小倉昌男
- 成功
- 知恵
- 当時
- 日本
- ネットワーク
- 運送会社
- 村上
- 配送
- 文章
- 個人荷物
- 社長
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
あの便利なサービス
一体 どうやって生まれたんでしょうね。
はい。 お願いしますね。
はい。
これ 明日 届きますかね?
え~っと こちらは… はい 大丈夫です。
大丈夫ですか。 はい。
着払いでお願いしますね。 着払いで。
割れやすいので大事に…。
はい 大丈夫です。 ありがとうございます。
お願いします。
店長 何を送ったんですか?
あっ ここにもあるんですけどね
これ 結構 人気なんですけど
「知恵泉」ラベルのお酒なんですよ。
お酒を?
そうなんですよ。
ああ~。
先代の店主がですね
大阪にいるんですけど
ちょっと これが欲しいって
言うもんですからね 送ったんですよ。
ああ。 いや 宅配便 便利ですもんね。
ですよね。
うちも 実家のおかんとかから ちょっと
実家のものとかを送ってもらったり
こっちで見つけた健康器具を送ったりとか
やり取りしてますんで。
そうですか。
でもね 今 コロナ禍の中でね
その宅配便の需要っていうのも
高まってると思うんですけど
個人から個人に運ぶっていうのは
これ 世界的に見ると どうなんですか?
これがね
個人から個人に運ぶっていうのはね
ほとんどないんですよ。
えっ! 知らなかった。
あのね 2000年代に入ってから
ネット通販っていうのが
ものすごく大きくなりましたよね。
家庭へ ものを届けるというサービスは
現在では当たり前になってますが
かなり やっぱり 個人の荷物を集めてくる
届けるのは別として
集めてくる技術 システムというのは
難しいですよ。
商売にはならないと
思ってたんでしょうね。
はあ~。 でも いるんですよね
日本では それを商売にした人が。
ねえ。 人が いるんですよ。
ほう。
いらっしゃる? へえ~。
欲しいもの 必要なものを家に居ながら
パソコンやタブレットで購入できる…
利便性から 日本だけでも
毎年4兆円の需要を生み
今や 生活に欠かせないものに
なっています。
そのビジネスを支える
重要なインフラがあります。
それが…
奥深い山の中や離島でも
ボールペン1本から大型家電まで
何でも数日で届く このサービス。
今では 個人宅への集配も
すっかり おなじみですよね。
しかし もともと
トラック運送会社が扱う荷物は
主に…
工場から小売店へというように
決められた区間を決められた路線で
大量輸送することで
会社は利益を上げていました。
そのため トラック業界では
こう言われ続けていました。
「小口の個人荷物の配送は
手間がかかるだけで儲からない」。
この常識に挑んだ人物がいます。
創業した父の後を継ぎ
運送会社の社長に就任。
しかし 会社は…
その時 起死回生の切り札として
小倉が提案したのが
宅配便でした。
ところが…
私も反対です。
どこも手を出さないのは
それなりの理由があるからですよ。
しかし そうした声にも負けず
勝負に出た小倉は
既成概念に縛られない斬新な視点と
マイナスをプラスに変える発想で
宅配便を成功に導き
インフラの一つといわれるまでに
成長させました。
今回 そんな物流の革命を起こした
小倉昌男の知恵を読み解くのは…
企業経営者だけで これまで…
ビジネスに関する数多くの記事や本を
手がけてきました。
小倉昌男にも 10年以上 取材を続け
小倉にまつわる記事の執筆のほか
書籍2冊を編集。
小倉昌男の経営者としての実像を
間近で目撃した人物の一人です。
企業経営者の心の内に迫ってきた
村上さんは
宅配便という新たなサービスを生み出した
小倉昌男の知恵を
どう読み解くのでしょうか。
ということでね 生みの親は 小倉昌男と。
こんばんは。
あっ いらっしゃいませ。 こんばんは。
こんばんは。
編集者で記者の村上富美さんです。
見てましたよ 今!
テレビに映ってましたね。
映ってた。 え~!
どうぞ どうぞ。
いらっしゃったんですね。
こんばんは。 こんばんは。
いらっしゃいませ~。
村上さん 企業経営者の方だけでも
300人以上…。
それくらい…。 すごい!
取材されてるということなんですよね。
どうですか
中でも この小倉昌男さんっていう人は。
日本の… 戦後の日本の暮らしを変えた
サービスというと
2つあるといわれてまして…
それをつくった方ということですね。
なるほど。 コンビニと宅配便と。
今の生活では もう切っても切り離せない。
確かに もう当たり前にありますもんね。
それをつくった一人
ということですもんね。
その小倉さんの本をつくろうと思った
きっかけっていうのは何だったんですか?
小倉さんは 宅配便をつくられた方で
非常に評価されてた経営者なんですが
ある時 うちの編集長が 小倉さんが書いた
文章があるよということで
一冊の冊子を持ってきまして
そこに書かれていた
実は 小倉さんの恋愛体験のことが
書かれていたんですけれども。
恋愛体験?
本当に文章がお上手なんですよ。
ものすごく感動する文章で
小倉さんは もともと
すごい事業をされた方なんで
そのご経験と知恵を世の中に残すべきだと
思っていたんですけれども
こんなにお上手な文章を書かれるなら
もう ぜひ本を書いて下さいと
お願いしました。 へえ~。
恋愛経験を書いた文章というのは
どういうことなんですか?
ねえ 気になる。
お若い頃にですね ある女性と
おつきあいをされていたんですけれども
小倉さん 結核のお病気になられて
で 最終的には ちょっと
別れてしまうということなんですが
その過程がですね
鮮烈な文章で書かれていまして
言葉の選び方も すごく的確というか
表現力も豊かで
全部 心の中にしみるような文章でした。
何が編集者の目に留まるかって
分かんないですね。 分かんないですよね。
でも どうなんですか お願いして
すんなり受けてもらえたもんなんですか?
いえいえ 2年かかりました。
2年。
口説き落とすまでに?
そうなんです。
もう 最初 「本を書いて下さい」って
言っても 「書かないよ」って言って。
何度も何度もお願いに行くんですけれども
「もう その話は終わりだ」って。
でも まだ しつこく通いました。
やっぱり この本を残すことが
もう 自分の使命のようなふうに
思えたんですね。
やっぱり この人に
ちゃんと語ってもらわないと…
編集者を
そういう気持ちにさせるぐらいの
小倉昌男という人物ですけど
中田先生 どうなんでしょう
その まあ 物流の歴史という
こう 広い目で見ますと
この宅配便の発明といいますか
これは こう
大きな変革を起こしたと
言えるんでしょうか?
大きな変革を起こしたというレベルの
話より もっと上だと思うんですよ。
実は 物流というのは
戦前から戦後しばらくですけども
国内を流れる荷物の…
で トラックというのは
非常に狭いところで
鉄道の端末だとか ちょっとしたものを
届けるぐらいだったんですが
戦後になりまして 経済復興から…
ある程度の距離を…
でも それは 結局 その 何て言うんですか
会社から会社とか
会社から個人へっていうことですもんね。
そうです そうです。 だから もう
個人荷物を運ぶっていうことは
基本的に なかったわけですよ。
どう考えても 個人から個人って
儲からないってイメージがね。
そういうふうに思うでしょう。 それを
だけど 思わない人間もいるんですよね。
それが小倉さんだと思います。
やっぱ 目の付けどころっていうのは
ちょっと 我々と違うと思いますよね。
その小倉さんの知恵をね
今日は見ていこうと思うんですけれども
こんなメニューをご用意いたしました。
こちらでございます。
店長 ちょっと これ
小倉さんに謝って下さい。
こんなダジャレにしちゃダメですよ。
ねばねば丼? オクラの?
ええ。
いや この「ねばねば」っていうのは 実はね
小倉さんならではの
粘り強いっていうところがね
あるんですよ。
もういきましょうか。
いきましょうか はい。
1960年 池田内閣が打ち出した
所得倍増計画が追い風となり
日本は 大量生産 大量消費が叫ばれる
高度経済成長の時代へ突入します。
この波に乗り
関西で生産される電化製品を
大消費地である 東京に運ぶ
トラック運送業界は
業績を好調に伸ばしていきます。
ところが 時流に完全に乗り遅れた
会社がありました。
それが 小倉昌男の会社です。
上期の状況は
そこに記されているとおりで
下期の見込みも このままですと
かなり厳しいことに。
百貨店の年末商戦に入りますので…。
小倉の父 康臣が会社を創業したのは
1919年。
トラック4台から始めた会社は
大手百貨店の配送を
手がけたことがきっかけで
運送網を関東一円に広げ
「日本一のトラック会社」と呼ばれるほどの
成功を収めました。
その康臣の信条が…
戦後 道路の整備が進み
運送会社は 長距離貨物輸送に続々進出。
しかし 康臣は
一向に考えを変えませんでした。
そのため 小倉の会社が 東京・大阪間の
長距離便の運行に乗り出したのは
先発業者から5年以上遅れた1960年。
既に 大口の顧客は取られていました。
1971年
父に代わり社長に就任した小倉昌男は
新しく建つ工場に積極的に営業をかけ
顧客の獲得に成功。
業績が伸び始めます。
ところが そんなやさき
予想外の出来事が起こります。
(ノック)
社長! 大変です。
エジプトとシリアが
イスラエルに攻撃を仕掛けました。
第4次中東戦争の勃発です。
石油不足から 物価が上昇。
消費が落ち込んだことで
物流も停滞しました。
大打撃を受けた小倉の会社。
このままでは 倒産もありうる状態でした。
そうした中で開かれた役員会で
小倉は ある思い切った提案をします。
先日 息子のお古をおいっ子に
送ろうとしたら 送れないんですよ。
運送会社の社長なのに。
いや この会社だけじゃない。
ほかの運送会社も
個人の小口荷物は扱っていません。
それで思ったんです。
考え方を変えれば
これは
競争相手のいない商売じゃないかって。
社長の家では 一年に いくつ
そんな荷物を送りますか?
1つか2つですよね。
それも 1個口ですよね。
確かに 個人荷物の配送は
商業貨物と違い
定期的な依頼がなく
売り上げの見込みが立ちません。
更に 配達員は 届け先を
一軒一軒 回る必要があります。
手間がかかるだけで儲からないというのが
運送業界の常識でした。
そのため 個人の小口荷物の配送は
利益を度外視した国のサービスとして
国鉄や郵便局が扱っていました。
ただし 荷物を駅や郵便局に
持ち込む必要がある上
頑丈な梱包を求められ
日数もかかることから
利用する人は限られていました。
問題は山積み。
しかし 会社を立て直すには
もはや
ほかの運送会社が手を出していない
個人荷物の配送にかけるしかない。
一体 どうすれば 問題を解決できるのか。
小倉は悩みます。
小口の個人荷物には需要はないと
役員全員が反対する中
小倉は 見えていないだけで需要はあると
考えていました。
小倉が こう考えた裏には
2年前 ニューヨークで目にした
ある光景があったからでした。
当時 ニューヨーク支店に勤務し
後に小倉の秘書を11年務めた
岡本和宏さんが
その時のことを話してくれました。
マンハッタンで
茶色い四角い まあ 集配車ですかね。
それが街角の四隅に 4台止まってた。
普通考えると
これは プライベートの会社でなくて
米国の郵政の集配車だろうと思って
調べましたら
アメリカで一番大きな
トラック会社だった。
それが…
…いうことが ポイントなんですよね。
ただ この会社は…
このサービスでは 日本人は利用しない。
個人宅に取りに行き
翌日配達はできないかと小倉は考えます。
そのために重要なのは
どうやって 町じゅうに
豆のように散らばった荷物を集め
全国に効率よく届けるかでした。
そして さまざまな業種の成功例を
研究した結果 たどりついたのが
航空業界で採用されている
システムでした。
かつて 航空業界では それぞれの空港間を
直行便で結んでいました。
その結果 路線が網の目のように
複雑になっていたのです。
そこで
大都市に拠点となるハブ空港を置き
そこから 自転車のスポークのように
放射状に地方空港を結ぶ
ハブ・アンド・スポークシステムに変更。
効率のアップに成功します。
小倉は このシステムを
宅配便に応用することを思いつきました。
大都市圏にハブ空港にあたる
ベースを設け
そことブロックごとに設置した
地方空港にあたるセンターを
ハブ・アンド・スポークで結び
その下に
更に細かく荷受けをするデポを置けば
豆のように散らばった個人荷物の集配も
スムーズに行えるのではないか。
そう考えたのです。
<このシステムが構築できれば
翌日配送も可能になる。
問題は センターの数をいくつにするかだ>
この新たな難問にも
小倉は ヒントを異分野に求めました。
地域にある消防署や学校などの数を
調べる中で
最も参考になると目をつけたのが
警察署でした。
というのも
警察署は 人口と県の面積を考慮し
管轄内のどの場所にも 30分以内に
行けるように考えられていたのです。
小倉は 警察署を参考に
センターの数を1, 200か所に決定。
更に 取り引きにあたっては
それまでの運送業界にはない
現金による取り引きとします。
これが いかに画期的なものだったのか
東京都トラック協会の常務理事
遠藤啓二さんが教えてくれました。
うちの業界で まず
今でもそうなんですけど…
(遠藤)今月分は 来月や再来月に払うよ
っていうような
やり方になるわけですよね。
そうすると
その分の運転資金なり 回転資金が
そこにないといけないわけですね。
ですけど 現金でもらうっていうことは
何が一番いいのかっていうと…
(遠藤)新しい車両も買えるし
新しい営業所も建てられる…
できますでしょうし。
こうして 小倉は
異分野の成功例をヒントに
日本独自の宅配システムを完成させると
1976年 会社立て直しの切り札として
宅配便の営業を開始。
1年目の取り扱い個数は…
2年目は 540万個と順調に増えます。
そして4年目。
採算分岐点といわれた3, 000万個を
ついに超えます。
この年の経常利益は 前年の3.3倍になり
小倉は 見事
会社の立て直しに成功したのです。
う~ん。
ということだったんですけど。
塚地さんも かつて
サラリーマン時代があったということで。
そうなんですよ。 僕は
仏具メーカーで働いておりましたので。
こういう社長 どうですか?
あの 人としては憧れますけど
会社としてね
それが もしも失敗した場合
我々社員は ちょっと
稼げないんじゃないかっていうことで
同じく反対してたでしょうね。
そうなってしまいますよね。
でも 村上さん それでもね 小倉さんは
粘り強かったということなんですよね。
そうですね。
その当時の経営が非常に厳しくて
立て直すためには 新しいチャレンジを
しなければならなかったという
その危機感があったと思います。
で 役員には反対されたんですが
現場の苦労を知る組合員の方たちが
味方についたという話も聞いてます。
じゃあ 一定数 会社の中には
受け入れてくれる人もいたと?
そうですね。 小倉さんは実は
オイルショックの時にも
組合員を誰一人 クビを切らずに
経営を維持したということもありまして
組合との関係が
非常に距離が近かったんですね。
それで 小倉さんがやるならという
応援団もあったと聞いてます。
社員の雇用を守りつつ
会社の未来をどうするかって考えた末に
たどりついたのが
この形だったということなんですか。
なるほど。
中田先生 個別の集配っていうのは
当時の業界の常識では
あまり考えられなかった
っていうことですよね。
それの一番の難しさっていうのは
むしろ…
もともと 世界中で
小口の荷物を家庭に届ける分は
郵便がやってたんですよね。
日本でも郵便がやってましたけど
それも 郵便局へ
持っていかなきゃいけないんです。
つまり 集荷はいらないんですよ。
だけど 小倉さんが考えてるのは
集荷から配送まで全部やるという。
どうして それができたかというと
小倉さんは 非常に高いところから
下を見るわけですよ。
荷物は各家庭から1個2個しか出ない。
年に何個かしか出ない。
それも どこへ行くか分からない。
それも いつ行くか分からない
というようなものをですね
普通に こうやって平らなところから
見ていくと 商売にならないですよね。
それをね 上に上がって いわゆる…
それをハブ・アンド・スポークシステムを
そこへ入れることによって うまくやる。
小倉さんは確信はあったんですか?
ほとんど 成功8割 失敗2割ぐらいの
自信はあったと思います。
この方はね…
だから パッとやるんじゃなくて
自分の頭の中で これは大丈夫だろう
ということをやっていく。
その理論をつくる… 経営は理論だって
本人 言ってますからね。
非常に その辺は はっきりしてましたね。
ここの知恵が…
小倉さんが参考にしたものが
なんと 航空業界だったということで。
ハブ・アンド・スポークシステム。
それを基につくり上げたのが
こちらということで。
これが成功のカギだったと。
あのね 1つ 加えていいですか。
これはね 小倉さんだけしか
やらなかったんですが…
ですから 我々は 家のすぐ近所で
荷物持ってって コンビニ持ってけば
さっきのような形で渡せば
それで済むんですよ。
これね 投資はいらないんですよ。
荷物を預かって下さいって
頼めばいいんです。 手数料払うから。
持ってきてくれたものを
店の横へ置いときゃいいんですよ。
そうすると 小倉さんの会社から
取りに行って 持ってってくれますから。
この取次店システムっていうのは
すごいですよ。
村上さん そのね 小倉さんは
異業種 航空業界っていうのを
参考にしたっていうことですけれども
ほかの業界を参考にするっていうのは
これ よくあることなんですか?
電話のネットワークのことも
よくお話しになってまして
電話も最初は 役所であるとか
大きな会社であるとか
そういうところが使うわけですけれども
ネットワークが広がると
一般の人も
おしゃべりをするようになって
そのネットワークが
どんどん使われるようになる。
そうすると 採算が…
よく言われるのが
ネットワークのビジネスをする時に
利用の多い 儲かるところだけやれば
いいじゃないか
という話もあるんですけれども
小倉さんは…
そういう便利なネットワークが
全国にあれば
普通は あまり使われないような
人が少ないところからでも
荷物が出せるし
で また そこに向けて
荷物も出るしということで
実際に 例えば 農産物であるとか
そういったところも
次々 開拓していかれましたし…
ものより 人を見てる感じですよね。
お客さんを見てるっていうことかなと
思います。
いや~ でも
やっぱり 何て言うんでしょう
広い視野を持つっていうのは
大切ですよね。
いろんな仕事でおいても
やっぱ 通ずるものっていうのは
全部あるんですね。
何か 今日の小倉さんのを見てて
思いましたね 今。
さて 宅配便というサービスをね
生み出したところまでは
見て頂いたんですけれども
今度はですね そんな小倉の前に
とてつもない巨大な敵が
立ち塞がるということで。 すごい。
一体 どう立ち向かったのか
次の知恵でございます。
第8話ぐらいですね ドラマだと。
(笑い声)
…という業界の常識を覆し
会社の経営を立て直した…
この成功を見た ほかの運送会社も
次々に宅配便に参入します。
そして 黒猫をトレードマークにした
小倉の会社に対抗し
カンガルーやペリカン 子熊など
動物をデザインしたトラックが
町じゅうを走り
動物戦争と評されるほどでした。
こうした中 他社に対抗するため
小倉が目指したのは
全国を網羅するネットワークの
完成でした。
というのも 1981年時点で
宅配便の営業区域は
関東を中心に
東海道 山陽道 北九州など
日本国土の面積の31%しか
なかったのです。
山の中や離島に住む人でも
都会と同じようなサービスを
受けられるようにしたい。
そのためには 全国に広がる
ネットワークの整備が必要だ。
そう考える小倉の前に
立ち塞がるものがいました。
それが トラック業界の監督官庁である
運輸省だったのです。
当時 路線免許というものがあり
トラックで 東京から仙台というように
地域を越えて荷物を運ぶ場合
運輸省に対して
使用する路線の免許を申請し
許可をもらわなければなりませんでした。
そのため 運送会社が
全国に荷物を配送するには
都市の間をつなぐ路線ごとに
免許を取る必要があったのです。
そこで小倉は 1980年に山梨
81年に北東北の路線を申請。
これに対し 運輸省は 「地元業者が
反対している」と返答したまま
音沙汰なし。
3年が過ぎ…
…と言われます。
実は この返答 小倉には想定内でした。
運輸省にとって 業者間の調整などは
とても手間のかかる仕事。
長期間放置された結果
申請を取り下げざるをえなくなった
というケースは
当時 しばしばあったのです。
申請から5年目。
じくじたる思いをしながらも
耐え続けた小倉は
満を持して行動を開始。
「法令に基づいた申請にもかかわらず
役所が 相当期間 何の処分も行わないのは
不作為にあたる」と
当時の橋本龍太郎運輸大臣を相手に
行政訴訟を起こしたのです。
4年間も放置した理由を説明できない
運輸省は
裁判を避けるため 公聴会を開催。
その席上で 小倉は…
…と 繰り返し説明。
すると 運輸省も それを認め
路線免許を交付します。
山梨路線と北東北路線の開通をきっかけに
小倉は 全国に配送網を広げていきます。
小倉と運輸省は 宅配便の送料を巡っても
火花を散らしています。
そのきっかけは ある日 学生から
「試験前にノートの貸し借りに
宅配便を利用しているが
もっと安い料金にしてほしい」と
言われたことでした。
当時は 10キロまでのSサイズと
20キロまでのMサイズの2タイプでした。
要望をもっともだと思った小倉は
2キロ未満 Pサイズを考え
Sサイズより200円安い料金で
運輸省に許可を申請します。
ところが 運輸省の返事は
「認めない」というものでした。
そこで小倉は あえて運輸省の返事を
逆手に取った作戦で反撃に出たのです。
こちらの2つの広告を見て下さい。
上が 先ほど紹介した
発売を告知した5月17日のもので
下が 発売日前日の
5月31日に出したものです。
注目してほしいのは この部分。
前の広告に「延期」の文字を入れ
その理由に
「運輸省から
200円安いPサイズの
発売の認可が
遅れているためで
認可が下り次第
発売します」と
おわびの文章を
載せたのです。
当然 運輸省は激怒。
しかし 世論は小倉に味方し
運輸省も…
みんなの生活に必要なサービスを
提供すべきという
正論で世に訴えた 小倉の作戦勝ちでした。
小倉は 自伝に こう書いています。
1984年度に
小倉の会社が運んだ荷物の個数は
1億5, 000万強となり
郵便小包を超えます。
以後も 宅配市場は拡大を続け
2020年度 業界全体での取り扱い個数は
45億以上。
今や 宅配便は 日本の物流を支える
重要なインフラとなったのです。
塚地さん 巨大な敵は 監督官庁だった
ということで。
これ もう全部 考えられた上での
行動というか… ってなってくると
すごい方だなと思いますね。
そうですよね。
その辺り 村上さん
運輸大臣を訴えるっていう
その行動について 小倉さんは
何かこう おっしゃってました?
そうですね
よくおっしゃっておられたのが…
どういう意味ですか。
つまり その二本差しっていうのは
お侍のことで
小倉さんは 自分は江戸っ子だ 町人だと。
それで 威張るだけの役人であるとか
お侍っていうのは
大っ嫌いだっていうふうに
おっしゃるんですね。
やっぱり
役所が仕事をしていないということに
非常に怒ってらっしゃいました。
でもね それを可能にしたのも
何と言っても ここの知恵が…
塚地さん この 正論で攻めるっていう
これ いかがですか?
一番かっこいいですけど
一番難しそうですよね。
だったら 政治家の方に取り入って
こうこうこうだけど
なんとかしてくれませんかって
言っちゃえば早いとは思うんですけどね。
でも そういうことを
一切なさらなかったんですね。
小倉さんのお父様と小渕元首相
総理大臣のお父様は
もともと仲がよかったということで
小渕さんと小倉さんも
若い頃から 子どもの頃から
おつきあいがあったそうなんですね。
だけれども
ある時 出版記念パーティーの時に
小渕さんがゲストで来られて
スピーチをされたんですが
長い間 小倉さんを知っているけれども…
え~!
おっしゃってました。
頼みやすいじゃないですか。
そうなんですよ。
それをやらないんですよね。
え~!
権力を持ってる人っていうのは
やっぱり強いんですね。
でも 小倉さんは 強い人というよりも
むしろ 一般の 力を持ってないけれども
便利なサービスを利用したいという
末端の方々のことを…
世論を味方につけてみたいなことじゃ
ないですか。
いわゆる 本当に ドラマの主人公の
もう 本当 最終話の感じですけど。
そうですよね。 今ね 塚地さんが
世論とおっしゃいましたけど
村上さん これ 世論っていうのは
どうだったんですか? 当時。
小倉さんに対して すごく支持する声が
多かったと思います。
本当に それは消費者だけでなくですね
ほかの経営者も
小倉さんを見習いたいという声は
よく聞きました。
ほかの経営者も見習いたいと?
はい。
例えば…
日本では 非常に 運輸業界…
航空行政が非常に規制が厳しくて
3社 もともとあったわけですけど
値段が非常に高かったわけですから
割安の航空会社をつくって
新規参入したいという
ベンチャー経営者が現れまして
その方は小倉さんのもとに行って
相談をしたんですね。
で 小倉さんは その方に話を聞いて
いろいろアドバイスもして
更に 出征兵士への握り飯だ
ということで
出資をなさって 応援されたそうです。
へえ~!
中田先生 正論に立ち向かう
小倉さんのやり方って
中田先生は どう見てますか?
小倉さんがやることっていうのは…
で 小倉さんが書かれた本なんていうのは
あれ マーケティングの
サービスマーケティングの教科書に
なります。
それぐらい高い評価ができると
思うんですが
その線で攻めていけば どうしても…
やっぱり 新しいものを生み出す時には
古い体制っていうものに
立ち向かわないといけない
っていうところはあるんでしょうか?
それは もう なければ
やはり 新しさ出ませんもんね。
さて 今日はですね 小倉昌男が
周りの反対を押し切りながらも
宅配便を成功させた知恵を
見てきたわけなんですけれども
村上さんが
小倉さんから学んだことをね
ちょっと教えて頂けないかなと
思うんですけれども。
そうですね もう本当に
見ていて かっこいいなと思いました。
本の… 書いて下さった本の最後に
小倉さんが…
すごく大切にしてらっしゃった言葉が…
その2つを胸にですね
闘ってこられたのかな
やり遂げてこられたのかなと
思ったんですね。
非常に その姿勢には
学ぶところが多いと思いました。
真心と思いやり。
大切だけど なかなかね…。
いや~ そうですね。
思ってはいるんだけど うん…。
頑張ろう 私も! 店主として。
真心と思いやり。
あと おいしいものを
用意してもらえませんか。
あっ そうですね。 ちょっと ねばねば丼も
まだ出してなかったですしね。
ぜひぜひ またのご来店を
お待ちしております。
ありがとうございました 今日は。
<いにしえの音楽を記憶した
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