工藤会トップ死刑判決から1年(3)元“マル暴”担当刑事が語る「野村被告の恐怖支配」誕生の瞬間

特定危険指定暴力団工藤会のトップ2人に死刑判決などが言い渡されてから8月24日で1年。元福岡県警のベテラン捜査員が死刑判決の衝撃、そして知られざる工藤会の内幕を語りました。

◆福岡県警 元捜査員A氏
「おそらく殆どの組員は『工藤会は解散しないと自分たちは存在していけない』というくらい追い詰められた。工藤会が衰微していったということは、昔は考えられなかった」

特定危険指定暴力団「工藤会」の弱体化に驚くのは福岡県警の元捜査員A氏(76)です。40年にわたる警察官人生のほぼ全てを暴力団捜査一筋で歩んだ人物です。

A氏が、いわゆる“マル暴”担当になったのは1970年代。当時、特に緊張状態にあったのが北九州地区でした。

◆1981年2月ニュースOA
記者「現在北九州市にある暴力団は42団体640人です。これがそれぞれ山口組系、反山口組系とに分かれて抗争事件を繰り返しており、両派の争いは次第にエスカレートしております」

当時、小倉の街は「工藤会」と新興勢力「草野一家」が対立関係にありました。1979年10月、「草野一家」の実力者「極政会」の溝下秀男会長が「工藤会」の中核団体「田中組」から襲撃されたことがきっかけで、いわゆる北九州戦争が勃発します。その2ヶ月後…

◆福岡県警担当者会見(1979年12月)
「工藤会 田中組組長 田中新太郎 年齢39歳。3発が命中して即死の状態」

「工藤会・田中組」の「田中新太郎」組長が「草野一家・極政会」によって射殺される事件が発生。両者の争いは泥沼化しました。その抗争の最中、A氏は「極政会」溝下氏と初めて出会い、取り調べにあたったと言います。

◆福岡県警 元捜査員A氏
Q「溝下秀男との出会いは?」
A氏「田中新太郎事件の翌月」

Q「最初の印象は?」
A氏「悪い印象はなかった。事件も認めるし、素直な態度だし。なんでかわからんけどそういう雰囲気に流れていった」

それからA氏は捜査のため、溝下氏と会うようになりました。1981年2月「工藤会」と「草野一家」の抗争は稲川会などが仲裁に入り和解が成立しました。1987年、「草野一家」と「工藤会」は統合し「工藤連合草野一家」が結成されました。

◆福岡県警 元捜査員A氏
「私の知ってる限り、田中新太郎組長を殺したあとに工藤会の関係者が『溝下を殺す』と言っていた人間が沢山いた。それが、その何年かの間に一つになって。旧工藤会の者と会った時には全員が完全に抵抗できないというか、溝下のカリスマが強かったということでしょうね」

新組織結成から3年後(1990年)、溝下氏は「工藤連合草野一家」の二代目総長に昇りつめました。この時溝下氏と親子の盃を交わし組織ナンバー2になったのが当時「三代目田中組」組長だった野村悟被告だったのです。

◆福岡県警 元捜査員A氏
Q「かつての親分である田中新太郎を殺害した組の当時のトップ、これは複雑な関係じゃないですか?」
A氏「それは私も疑問に思ったことがあるけど、本人は『それは野村とも話をして納得して子になった』と言っていた。野村自身は“枝の子(三次団体の組員)”ですから。そういうことで溝下も『(田中新太郎は)親じゃない』という野村の話を信じたのではないか。私が見る限り、本当に野村は溝下に心酔をしていた。言葉遣い、態度、本当にこの人には逆らってはいけないと」

そして野村被告は組織内での足元を固めていきました。1999年、「工藤連合草野一家」は「工藤会」に改称。三代目会長には溝下氏が付きました。この時期、溝下氏はA氏にこう打ち明けたといいます。

◆福岡県警 元捜査員A氏
「『北九州のことは全部野村に渡した』と、『俺は一切にタッチしてない』と。溝下を支えるということで彼の信頼を得たということでしょう」

2000年、溝下氏(当時53)は健康上の理由から野村被告を四代目工藤会の会長に指名しました。四代目会長になった時期、野村被告が作らせたという焼酎があります。黄金色の箱に入った五合ビンには「幻の焼酎・野村」「北九州・小倉」と書かれています。

◆福岡県警 元捜査員A氏
Q「溝下秀男という人物はカリスマ性があって、それが組織をまとめあげた。野村悟という人物の組織をまとめる力の源泉はなに?」
A氏「やっぱり恐怖でしょう」

◆クラブ襲撃事件(『ぼおるど事件』2003年8月)
記者「北九州市の繁華街の高級クラブに爆発物のようなものが投げ込まれたようです」

2003年8月工藤会は暴追運動の先頭に立つ男性が経営するクラブに手榴弾を投げ込む事件を起こしました。この事件を皮切りに、工藤会は暴力団排除を打ち出した企業などを次々に襲い出しました。

◆福岡県警 元捜査員A氏
Q「溝下氏と最後に会ったのは?」
A氏「亡くなる何年か前。病状を確認してくれと県警から依頼があって。裸になって(手術の)傷口を見せてくれて『もう大丈夫だ』と本人は言っていた」

2008年7月、溝下氏が61歳で亡くなりました。溝下氏の葬儀は警察が厳重に警戒する中行われ、全国各地から暴力団関係者が駆け付けつけました。A氏によると、溝下氏の葬儀の数日後、野村被告は「田中新太郎」氏の墓参りに行ったといいます。

◆福岡県警 元捜査員A氏
A氏「昔の田中組の組員たちを連れて行ったと聞いた。“敵討ちの報告”と」
Q「田中新太郎氏が殺されたことについて一切恨みを見せなかったが、その心はまだ残っていたと?」
A氏「ただそれは目の前の恐怖、大きな溝下の影に全部隠していた。亡くなった親分を見た時に『これで完全に俺が北九州の親分だ』という意識になって、本当にこの世から居なくなって、それで本当の自分が出た」

◆末松勝巳組長宅銃撃事件(2008年8月)
記者「ここが銃弾が撃ち込まれた門です。貫通はしなかったものの、大きくへこんでいます」

溝下氏の死後、工藤会では“溝下派”への粛清ともとれる動きが活発になりました。溝下氏に近かった「篠崎一雄」元組長(当時66)は工藤会によって射殺。また、溝下氏の側近だった「江藤允政」元組長(当時65)は引退に追い込まれた後、何者かによって射殺されました。

◆工藤会五代目継承式(2011年7月・北九州市小倉北区)
「押忍!押忍!押忍!」

溝下氏が亡くなってから3年後。野村被告は工藤会トップの総裁の座に座り、ナンバー2の会長には腹心の田上不美夫被告、ナンバー3の理事長には菊地敬吾被告を指名しました。工藤会トップ3が全て田中組出身者という野村被告の独裁体制が確立しました。工藤会はさらに暴走を続けます。

◆元警部銃撃事件(2012年4月)
アナウンサー「北九州小倉南区で元警察官の男性が銃撃されました」

2012年、野村被告は配下に指示し福岡県警の元警部を銃撃。さらに同じ年に工藤会は暴力団員の立ち入り禁止の標章を掲げた飲食店の関係者を次々に襲う事件も起こしました。
捜査関係者によると、野村被告が組織の実権を握った2000年以降、工藤会の犯行とみられる襲撃事件は「113件」発生。そのうち殺人事件は9件、殺人未遂事件19件、発砲事件46件、放火17件、爆発物を使用した事件5件。狙われたのはほとんどが一般の人でした。

◆福岡県警 元捜査員A氏
A「溝下が親分のままおれば、街の小さなスナックのママの顔を切ったり、ああいう事件は起きていないと思う。ここまで北九州は変わっていないと思う」

事態を重く見た国は暴力団対策法を改正。工藤会を全国の指定暴力団の中でも特に凶悪な組織として「特定危険指定暴力団」に指定しました。そしてついに-。

◆野村悟総裁宅家宅捜索(2014年9月)
記者「工藤会のトップ、野村総裁の自宅に警察が強制捜査に入ります」

2014年9月、福岡県警は頂上作戦を開始。野村被告ら工藤会最高幹部を次々に逮捕しました。

◆野村被告判決公判(福岡地裁・2021年8月24日)
記者「野村被告に極刑が言い渡されました」

2021年8月24日、福岡地裁は4つの市民襲撃事件で野村被告の関与を認定。野村被告に死刑、ナンバー2の田上被告に無期懲役を言い渡しました。判決から1年。A氏は野村被告の死刑判決が暴力団社会に与えた衝撃についてこう語ります。

◆福岡県警 元捜査員A氏
A氏「世の中の他の組織の暴力団の親分たちも、“この判決は大変なこと”だと。親分の使用者責任、共謀共同正犯、推認でもっていかれると。全国のヤクザ組織に与えた影響はものすごい」

また工藤会に与えた衝撃については-。

◆福岡県警 元捜査員A氏
A氏「おそらく工藤会のほとんどの組員は『もう辞めたい』と思っている人間がほとんどと思う。みんな心の中でどこかほっとした部分と」
Q「ほっとした、とはどういう意味?」
A氏「これ以上指示がないわけですから、人に対する。だけど判決を受けたということであれ、そこを抜けるということは非常に難しいと思う。一度植え付けた親分に対する恐怖心はぬぐえない。時間がたっても」
Q「野村総裁から逃れられない?」
A氏「そうですね。工藤会の壊滅を目指すなら、それが若い組員たちの為にもなると思う。残しておけばどうしてもその中で縛られる。なんとか壊滅に向けて頑張ってもらいたい」

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