出典:EPGの番組情報
先人たちの底力 知恵泉「織田信長の“子育て術” 刺激こそ成長の糧」[解][字]
織田信長は、跡継ぎとなる信忠をいかにして育て上げたのか。そこには、わが子に常に刺激を与え成長を促した父親・信長の姿があった。信長の知られざる“子育て術”に迫る。
番組内容
天下統一に近づきながら、本能寺の変で夢破れた織田信長。その信長に優秀な跡継ぎがいたことをご存じだろうか?その名は、信忠。信長の武功として知られる数々の合戦の勝利も、実は、若き信忠が大きな役割を果たしていた。信長は、信忠をどのように育てあげたのか。史実をひもとくと、常に子に刺激を与え、成長を促していた、父親・信長の姿が浮かび上がる。現代の子育てにも通じるヒントを、信長の“子育て術”から学ぶ。
出演者
【出演】尾上菊之助,渡辺満里奈,静岡大学教育学部教授…小和田哲男,【司会】高井正智ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
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- 大切
- 武田勝頼
- 名前
- 我慢
- 気持
- 実際
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
戦国武将の中でも
抜群の人気と知名度を誇る
織田信長。
天下統一を目前にしながらも
本能寺の変で夢破れた
悲運の武将ということは
皆さん ご存じですよね?
でも 信長の子どものことって
知っていますか?
えっ よく知らないって?
実は すごく優秀な子がいたんです。
…ということは 信長は
ちゃんと子育てをしていた
ということでしょうか。
気になりますね。
そこで 今日は
織田信長の
知られざる
子育て術に迫ります。
信長の知恵を
読み解くのは
歌舞伎俳優の
尾上菊之助さん。
人間国宝の父 尾上菊五郎さんの
指導のもと
6歳で初舞台。
19歳で
五代目 尾上菊之助を襲名しました。
(拍手)
モモケン!
やあ。
現在は歌舞伎だけでなく
映画やドラマなど
活躍の場を広げています。
映画村でしか見られぬショーがある。
私生活では
3人の子の父親である菊之助さん。
信長の子育ての知恵を
どう読み解くのでしょうか。
何か すごい雰囲気 変わりましたね。
新店主の高井正智と申します。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
ダジャレのにおいが あまりしない感じ。
前の店主 何か昭和の歌謡曲みたいのを
口ずさんだり。
今ちょっと 福岡の辺りで
歌ってるかもしれませんけどね。
こんばんは。
失礼します。
お座り下さい。
よくお越し下さいました。
お待ちしておりました。
歌舞伎俳優の 尾上菊之助さんです。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
今日は よくお越し下さいまして
ありがとうございます。
子育てっていうことですけれども
菊之助さんのご長男 歌舞伎俳優として。
8歳になりまして 尾上丑之助として
5歳で初舞台を踏みました。
下の子は今
6歳と4歳の女の子がいまして。
じゃ 3人きょうだいでいらっしゃる。
はい 3人きょうだいです。
うちは14歳の息子と11歳の娘で
中学生と小6ですね。
もう思春期?
思春期です! もう本当に悩みまくりです。
いろんな悩みにも
お答えできるかなと思うのですが
テーマは「信長の子育て」。
どんなイメージ…。
子育てというよりも自分で率先して
何でもやってしまって
あとは育てるというよりも
ただ「ついてこい」みたいな感じ
なのではないかなと。
戦国武将って 本人が一生懸命
子育てをするっていう
イメージがあまりない…。
小和田さん 信長が子育て
ちゃんと
やってたっていうことなんですか?
やってますね。
やってる!
ちょっと
こちらを見て頂きたいんですね。
信長 21人 あるいは それ以上
子どもがいた
ということなんですけれども。
上の3人といわれているのが
こちらなんです。
嫡男の信忠 次男の信雄
そして三男の信孝と。
これは
大人になった時の名前なんですが
幼名 つまり信長が
生まれた時に付けた名前 分かります?
何だろうな…。
ちょっと浮かばない?
よく「何とか丸」とか
ちょっと かわいらしい名前。
答え見てみましょうか。
「奇妙」「茶筅」「三七」。
これはね やっぱり信長が
自分に子どもができた ちょっと
てれがあったんじゃないですか?
だから 奇をてらったような名前を付けた。
自分が親になるっていうのの実感が
あまり まだ湧いてないっていうか
何か不思議な感じだなみたいな。
「茶筅」は一般的には生まれた時
毛が ちょっと 茶筅みたいに
見えたからっていう説もあるし。
あと「三七」は信孝が生まれたのが
3月7日だったかな? そういう あれで
とったという説もあるんですよ。
ぱっと見で付けてるって
感じなんですかね。
そんなに考えないで…
そんな感じですね。
今日はですね こちらの嫡男の信忠を
父 信長がどう育てたのかということで
見ていきたいと思いますが
その前にこちら 料理を用意しました。
天ぷら? ん?
大事なのは この頭文字
「O」「J」「T」。
(笑い声)
「OJT」。
勘のいい方は もしかしたら
「あっ!」と
思われたかもしれないんですが
この「OJT」が
信長の子育てと どう関わってくるのか。
まずは最初の知恵を ご覧頂きましょう。
元亀3年7月。
琵琶湖に近い小谷城を
織田信長は 攻めたてていました。
信長軍の陣に年端も行かぬ
若者の姿がありました。
織田家のヤングプリンス 信忠。
この時16歳 初陣でした。
木下秀吉 柴田勝家など
世に聞こえし歴戦のつわものたち。
死と隣り合わせの張り詰めた緊張感。
こんな戦の最前線に
我が子を連れてきた信長。
そこには
後継者を一刻も早く育てるための
教育方針があったのです。
信長の長男 信忠。
生まれたのは弘治3年。
でも 公式な記録は残っていません。
それは当時 信長に
全く余裕がなかったからかもしれません。
父 信秀の死により
信長が家督を相続したのは
信忠誕生の5年前。
国の内外から次々と攻撃を受けて
生き残るのに
精いっぱいでした。
戦の合間の短い時間に
「奇妙」という名を考えたのでしょう。
この「奇妙」という名が
記録に表れるのは永禄12年。
13歳の時といわれています。
それまでの間に
信長の立場は大きく改善しました。
対立する親族を服従させて尾張を統一。
今川義元を桶狭間に倒し 徳川家康と同盟。
更に 美濃を攻略。
将軍を奉じて
京都に上るなど
一目置かれる存在に
なっていたのです。
この時期
「奇妙様からの命令で」と書かれた書状が
複数残っています。
信長は既に長男に自分の仕事を
手伝わせていたことが うかがえます。
元亀3年 16歳になった奇妙は元服し
名前も「信忠」に変わりました。
次は いよいよ武将になるための
第一歩 初陣です。
初陣といっても 実際には
形式的な儀式として行う大名が多い中
そこは信長 違いました。
リアルな現場こそが
優れた武将を育てる
最高の環境だと考えたのです。
伝統より効率や実利を重んじる信長は
信忠の初陣に
目下 激戦を繰り広げている
小谷城を選びました。
小谷城城主 浅井長政との
戦いは
3年目に入っていました。
戦について学ばせるには
最高の環境が整っています。
柴田勝家や木下秀吉など
超一流の戦いぶりを
間近に見せることができるのです。
更に 信忠は足軽隊を率いて
小谷城の支城の一つ
山本山城を攻撃するという実戦も体験。
敵の足軽50人を倒しました。
信長は もう一つ この戦いで
大切なことを教えようとしていました。
小谷城には
長政に嫁いだ信長の妹 お市と
3人の娘がいました。
信忠にとっては叔母と
まだ幼い いとこたち。
自分たちが勝利することは
彼女たちにとって
死を意味するかもしれません。
それでも 兵を引くことはできない。
それが
戦国に生きる者の
定めであることを
学んだのです。
信忠にとって
得るところの多かった初陣。
信長の後継者として
第一歩を踏み出したのです。
現場教育は続きます。
天正2年1月。
新しい年を迎えた信長に火急の知らせが。
明知城が武田勝頼に
包囲されたというのです。
美濃と信濃の間の
重要な拠点で
敵の手に落ちるのは痛い。
信長は信忠を連れて 2月5日に出陣。
救援に向かいました。
しかし 明知城は山の中。
道が険しく
思うように進めずにいる間に
城は武田の手に
落ちてしまいました。
完全に出し抜かれた
戦いでした。
それから4か月後の 6月5日。
今度は徳川家康から援軍の要請です。
守りの要である高天神城が
武田勝頼に攻撃を受け
家康の兵だけでは
守りきれないというのです。
信長は また信忠を連れて
9日後に出陣。
しかし 5日かけて
近くまで来たところで
またしても落城の知らせが
届いたのでした。
立て続けに武田勝頼に してやられた信長。
しかし これも戦というもの。
信長は負けを取り繕うのではなく…
信忠にとっては
こうした負け戦も
貴重な学びになりました。
信忠への現場教育は
だんだんと厳しさを増していきます。
休む間もなく 信長は
長島一向一揆との戦いに出陣。
今回は信忠に一軍の大将を任せました。
勝敗の鍵を握るのは地形です。
そこで信長は今回
周到な作戦を準備しました。
まず 水軍を手配し 敵の動きを封じます。
そして 外側から
大軍で包囲を狭めていき
最後は
兵糧攻めにするのです。
信忠は織田信次や織田秀成など
一族中心の部隊を率いて
北東から軍を進めました。
行き場を失った一揆軍は
およそ1か月半後
大勢の餓死者を出して
ついに降伏。
勝利に安心した信忠は
政務を片づけるため
一旦 岐阜に戻りました。
ところが その間に戦場では
大変なことが起きていたのです。
信長は「命は助ける」という約束を破り
降伏してきた信徒たちを
殺すよう命じたのです。
これは あまりにもひどい。
怒りに駆られた数百名の信徒が
信忠不在の軍めがけて突入しました。
不意をつかれた信忠の部隊は
大きな被害を出してしまいました。
一族の者が大勢 命を落とし
後味の悪い結果となったのです。
信忠は またもや大きな教訓を得ました。
将たる者 いかに状況が
有利であろうと
合戦の間は
油断してはいけない。
信長の現場教育によって
信忠は 短期間で
急速に力をつけていきました。
天正3年 長篠・設楽原の戦いでは
信長と別に本陣を構え
家康らとともに武田勝頼を撃退。
更に 明知城 岩村城などの要衝も奪還。
初陣から 僅か3年。
信忠は織田軍団を支える
武将の一人として
欠かせない存在となっていたのです。
というわけで
本日のメニュー 「OJT」。
「on‐the‐job training」。
そうですか。
現場で経験を積むこと それが大事。
実際に歌舞伎界でも
OJTの考え方っていうのはありますか?
あると思います。
私は6歳の時に初舞台を踏みまして
とにかく場数を踏ませる
初舞台でも主役を頂いて
周りの そうそうたる先輩方たちが
出て下さって 場を盛り上げて下さって
尾上丑之助という名前を
襲名したんですけれども
強烈な実地訓練ですよね。
嫌だなとか そういう気持ちって実際…。
何日もかけて せりふを覚えたりとか
動きを覚えたりするので
稽古が嫌になる気持ちも
あるんですけれども
それ以上に
褒美を買ってもらったりとか
周りの大人とかも
すごく褒めて下さるので。
嫌なこと忘れるんですよね。
その辺 大事ですね
褒められるっていうことが。
やっぱり だんだん それで
あっ こうやれば
自分はいくんだっていうね
そういう気持ちに
なってくんじゃないですかね。
やっぱり 経験することが
すごく大切だと思っているので
実際に お米作りを自分たちでさせるとか
野菜を作るとか
キャンプに行って 自然の中で
実際に触って 気持ち悪いっていうのから
面白いとか
こういう生き物が
いるんだとかっていうのを…
そういうのを
すごく大切には していました。
ここの知恵が 「現場の積み重ねこそ
成長への近道」ということですが
小和田さん これ
なかなか激しい育成方法ですよね。
武将として育っていく上では
初陣ですよね。 最初の戦い。
これ大体 どの武将も ある意味じゃ
絶対 勝てる戦いに初陣をさせる
っていうのが ルールみたいなもんで
そうじゃないと 自信がつかない。
勝てるような戦いを 親が いろいろ
お膳立てしてくれてる
っていうのは あって
そこで やっぱ 経験積んでいく
っていうことが大事ですね。
何か 歌舞伎の世界と
ちょっと通じるものがありますよね。
歌舞伎の世界で
6歳で初舞台を踏んでから
小学校の高学年から
中学校になってくると
大人でもないし 子どもでもないという
時期が来るので
私も役がつかなくって。
そうなんですね。
歌舞伎から心が離れるんですけれども
そういう意味で
祖父と父が心配をしまして
これも本当に
大変な演目なんですけれども
「道成寺」というね 演目が。
有名な。
有名な演目があるんですけど。
それを 祖父と父と私
3人でパートを分ける
「三人道成寺」という企画を
作って下さったんですよね。
かなり父親 それから祖父も
冒険だったと思うんですけれども
でも その中で やっぱり…
祖父や父から芽生えさせて頂いた
実地訓練が
中学校ぐらいの時にありましたね。
すごい覚悟ですね。
小和田さん 信長っていうのは
ほかの戦国大名と比べても
たくさん 戦の場所に
子どもを出してるってことなんですか?
そうですね 信長は積極的にというか
どんどんどんどん 連れてってますね。
それは 勝ち目があるって
分かってるわけでは…。
いや~ だから 必ずしもそうではない。
遅れちゃったとか
助けられなかったとか
そういう戦い… だから 自分の失敗も
見せてるっていうところが
何か 信長の子育てのすごいとこかなと
思いましたね。
そういう 特に父の背中を見て育つって
私も そうだったんですけれども
うちの父は どっちかっていうと…
そういう育て方でした。
盗んで覚える 耳で聞いて
せりふ回しをやってみる。
で 分かんなかったら 周りの先輩に
聞きにいくっていうことを
私は教えられました。
親が 子どもに 直接
ああだ こうだ こうだ ああだって
言うよりも 多分…
それを思って 実地をするっていうのは
それ以上の教育はないなって思います。
ご自身はどうですか?
子育てする上で現場で学ぶ…。
ついつい言っちゃうんですよね。
(笑い声)
でも お料理するのでも 何でも
「あっ 包丁危ないから
使っちゃ駄目」とか
「それ危ないから こういうふうにした方が
いいよ」って言うよりは
一回 けがをしてから
あっ 本当に痛いんだ
本当に血が出るんだっていうふうに
自分で痛みを分かったほうがいい
っていうふうには思ってます。
心掛けてます。
確かに子どもが自分で考えて
いろいろ挑戦するって
すごく大事だなと思うんですけど
うまくいかなかった時
周りは どうしたらいいのかということ。
本当に世の親にとっては
悩みどころだと思うんですけれども
このお店の常連で
子育てに詳しい方にですね
ちょっと 伺ってきましたので
こちらを ご覧下さい。
高井さん
新店主 就任おめでとうございます。
そのうちね 尾木ママも呼んで下さいね。
遊びに行くわよ~。
ぜひ お越し下さい。
菊之助さん いかがですか?
自分の子どもに
稽古をつける時なんかも
詰め込み過ぎるのではなくて
どういうところが できていて
どういうところが できていない
というのを ちゃんと説明してあげる。
そうすると
自分で考えるようになるんですよね。
自分で気づくようになるっていうのが
指導の一番のポイントなんじゃ
ないのかなと思って
自分の子どもに稽古をつける時は
そういうふうに
接してはいるんですけれども。
すごい 大切なことだと思います。
自分が それができないというか
中学生とか思春期になってくると
失敗したことを
「何が悪かったと思う?」って言うと
自分が ものすごく責められてるみたいな
気持ちになるみたいで
何かね すごく反発するんですよ。
「そんなの分かるわけ ないじゃん!」
みたいな。
言われちゃったりとか
なかなか難しいなって思って でも
子どもは いろいろ本を読んだりとか
何か いろんなこと
話を聞いたりとかして
子どもは
自分で自分のことを教育できると。
…っていうのを聞いて
ちゃんと できた時に 褒めてあげれば
いいんだなっていうのを
今 一生懸命 頑張っているとこです。
ついつい こうだよ ああだよって
自分で何か
言いたくなっちゃうんですけど…。
なりますよね。
そうなんですよ。
私も小学1年生の息子がいるんですけど
こうしたら うまくいくと思って
先回りしちゃう時があって。
この前 我慢してみたんですよ。
公衆電話をかけてみるっていうの
やってみたんですけど
受話器を取っておかないと
十円玉入れても落ちてくるよって
思うんだけど 我慢 我慢…。
それで ようやくやって
私の携帯電話に
電話がかかってくるんですよ。
それで出た時の
距離は1メートルぐらいなんですけど
涙が出そうになって。
でも 我慢するって
本当 親にしては難しいですよね。
難しいですね。
我慢するの。
難しいです。
でも だからこそ
やっぱり できた時にちゃんとね
わっと褒めてあげないとっていうのは
すごく思いますね。
さあ 急成長し
一人前の武将となった信忠ですが
そこにですね 信長は
更なる成長を促していきます。
織田信長に驚きの知らせが。
大和の戦国大名 松永久秀が
謀反を起こしたのです。
信長は討伐軍を向かわせます。
その総大将に
僅か21歳の信忠を
抜擢しました。
率いるのは 佐久間信盛 丹羽長秀
明智光秀など
レジェンド級の重鎮たちばかり。
かなりの責任とプレッシャーですね。
10月上旬に始まった戦いは 激戦の末
織田信忠軍が勝利。
大抜擢に見事応え 結果を出した信忠。
これをきっかけに織田軍団の総大将は
信長から信忠へと代わります。
そして信忠は期待に応え
連戦連勝を
重ねていくのです。
実は この大抜擢も
信長流の子育て術でした。
世の中一般の親心として
ありがちなのが…
…というような
甘やかし系 箱入り対応です。
しかし信長は
あえて
その逆の手段をとったのです。
…と 考えていたかどうかは
定かではありませんが
確かに織田軍団の面々は
もともと無名だった者が
信長に抜擢され
重要な任務に応えることで
のし上がってきた者ばかり。
また これより前 天正3年に信長は
当時19歳の信忠に
家督を譲り
織田家の当主に
しています。
これも また
立場を与えれば
それに合わせて成長するだろうという
子育て術に沿ったものでした。
ほかの戦国大名と比べると
19歳というのは かなり早めです。
信忠は岐阜城
そして尾張・美濃という
織田家の本拠地を相続し
治める責任を
負うことになりました。
だからといって 信長は
もちろん 隠居するわけではなく
天下人という目的に
専念できる
というわけです。
まるで理想の息子 信忠ですが
父と
一触即発の危機になったこともあります。
天正9年 信長は
「京都馬揃え」と呼ばれる
大軍事パレードを行いました。
朝8時に始まったパレードは
午後2時まで続き
20万人の観客が集まったとか。
信忠も馬 80騎を引き連れて参加。
信長の後継者であることが
こうして世に示されたのですが…。
このあと 間もなく
2人の関係に
亀裂が生じたというのです。
実は信忠 能楽が大好きで
天正9年8月には
弟の信雄 信孝と
3人で
大勢の観客を前に
舞を
披露したといいます。
これが 信長の怒りを買いました。
信長は
子どもたちが歌や舞をたしなむことを
よく思っていなかったようです。
…とも 言っていたとか。
事実上の謹慎処分です。
世の中に激震が走りました。
もし この2人が
戦うようなことになれば
計り知れない影響があります。
織田家当主で
織田軍総大将となった信忠は
信長と ほぼ互角の力を持つ存在に
成長していたからです。
この けんかの行方を
当時の天皇も
ハラハラしながら見守っていました。
やがて親子は
仲直りしたのですが
天皇は
それを喜んで
褒美を与えたと
当時の記録は
伝えています。
年が明けて天正10年。
信忠は ついに
宿敵 武田勝頼を倒す戦いに赴きます。
2月12日 岐阜を出発した信忠軍は
敵の重要拠点である 高遠城を落とし
武田領内深くに進みました。
あまりに進軍スピードが速いので
安土にいる信長が心配して
もっと ゆっくり行くよう
意見したほどです。
3月7日 甲府を占領。
武田勝頼は僅かな供だけを引き連れて
山道を逃げていましたが
発見され 観念して自害。
信長を さんざん悩ませてきた
武田氏の最後でした。
信忠は もはや信長の期待を上回る
リーダーに成長していました。
自分とは そぐわないような機会を
信長から与えられて
それも ものにしていく信忠さん
すばらしいと思いました。
信忠さんっていうのは
センスがあったんですか? 戦う。
そうですね 例えば武田攻めの時なんか
自分が先頭を切って堀を駆け上がって
柵を倒して
それで突っ込んでいくっていうね。
やっぱ すごい武将ですよ。
すごいんですね。
ここでの知恵が…
どう思われますか?
私は
菊之助を襲名する時に
信忠さんと同じようなチャンスを
頂いたというふうに 今 見ていて
歌舞伎界でも大事にされている
難物の「鏡獅子」という踊りを
昼と夜で
襲名狂言として出すっていう
チャンスを与えて頂いたんですね。
祖父が じゃあ菊之助を
襲名させろって言って
歌舞伎座で
この2つの役をやらすって言って
その時に 私は まだ
その実力に至ってないので
「ごめんなさい その襲名
1年延ばして下さい」っていうふうに
言ったんですよね。
そしたら1年延ばしていく間に
祖父が病気になってしまって
祖父がいるうちに
菊之助襲名できなかったんです。
でも その翌年
1年間 とにかく猛稽古をして
襲名に向かったんですけれども
祖父への感謝の思いも抱きつつ。
でも 信忠さんのように
私はいかなかったんです。
決して 満足のいく結果だったとは
自分では到底 思えてなくて
菊之助という…
…と思っていて
役者人生は
そこから始まったと思ってるんです。
そこが まさに原点。
原点でしたね。
信忠さんのように 連戦連勝とは
いかなかったですけれども
そこから連戦連勝できるように…
いろんな思いがあっての。
これは 私の考えでは
それぞれの本人の資質を見て
それを与えてあげたいなとは思います。
うちは 長男は すごくリーダーに
なりたがったんですけども
下の娘は
全然そんなことなかったんですね。
自分なんか 別にそんなことやりたくない
っていうタイプで
全く きょうだいでも 違う性格だったので
その辺は やっぱり…
子育ては その辺は大切にしてますけど。
「やりたくない」って言ったら
そこに無理やり
「いや でも
こういうふうにやってみなよ」とか
「こうやったらいいと思うよ」っていうのは
言わない。
確かにですね 大きい立場を与えて
頑張るっていう子もいるんですけど
プレッシャーに感じてしまう子も
いると思うんですよね。
そこで またアドバイスをですね
あの常連さんに伺ってまいりました。
うちの父親は どっちかっていうと
任せるタイプだったので
どんだけ不安だったんだろうなって
今 自分が父親になってからだと
思いますね。
そういう 仲間たちや
サポートして下さる先輩方を信頼して
やってみろっていうことだったんだな
っていうふうには 今 思いました。
私は 本人たちに任せるって
ずっと思ってたんですけども
やっぱり 何かタスクを与えて
任せるっていうのは
テクニックだなってすごく思いました。
親の手腕というか
少しずつ 何か ここを乗り越えてほしいな
成長してほしいなって思ったら
親が 与えるって思わせないで 与えて。
ちゃんと 子どもに。
それを見守る。
そうすると どうやって
それを乗り越えればいいかっていうの
本人が
自分で考えるっていうわけですよね。
周りのサポートしてくれる人たちに
どこまで 身を委ねるのかとか
感謝できるのかとか
そういうのも ちゃんと見て
任せるのは すごい大切なのかなって
今 思いながら見てました。
さあ 思いどおりに
子育てが進んでいたように見える
信長なんですけれども
このあと あの事件が起きます。
天正10年6月。
京にいた信忠は 父 信長に呼び出され
本能寺を訪れます。
酒も入り いつになく親しげな様子で
昔話に花を咲かせる信長。
天下を目前に
たくましく成長した息子の姿が
うれしかったんでしょうか。
しかし これが親子の過ごす
最後の夜になってしまいます。
夜半 本能寺から1キロほど離れた寺で
床に就いていた信忠。
くつわの音に目を覚まします。
明智軍による 本能寺襲撃の知らせでした。
明智… 父上をお助けせねば。
具足 持てい! 手の者を集めよ!
はっ!
しかし そのころ 本能寺では
既に 火が放たれていました。
信忠さえ無事に逃げることができれば
織田家の夢をつないでいける。
信長は そう考えたのかもしれません。
駆けつけようとする信忠のもとに
本能寺焼け落ちの一報が
飛び込んできました。
知らせを聞いた 信忠。
逃げるべきか 戦うべきか。
信忠は戦うことを選びました。
20代の若武者は
最後の戦いに打って出ます。
明智の軍勢は 一万数千の大軍。
対する味方の数は
10分の1にも満たなかったといいます。
必死に戦う信忠たちでしたが
大量の鉄砲に圧倒され
次々と倒れていきました。
僅か2時間で勝敗は決しました。
燃えさかる炎の中で
父 信長と同じように
「無常の煙となった」と
「信長公記」は伝えています。
享年26。
あまりにも早すぎる 無念の最期でした。
信長側からすると
自分たちの義を踏みにじられた
というふうに思ったと思うんですよね。
彼は とにかく
お父さんのところに駆けつけたい。
お父さんのそばにいたい。
そして お父さんの義を踏みにじった男を
許せないという思いで
突っ込んでったんじゃないのかな
っていうふうに 今 見ていました。
小和田さん これ 信忠は
逃げることもできた。 でも逃げなかった。
家臣で結構 逃げた人もいるんですよ。
だから 逃げられなかったわけでは
ないと思うんですけど。
歴史に 「たられば」はないですけれど
もし 生きていたら。
もし万が一 生き延びていれば
そのまま 織田政権は続いたと思います。
ということは このあと
秀吉が出てくる幕はない。
もちろん
家康が出てくる幕もないわけで
歴史は随分 違ったでしょうね。
今日はですね 信長の子育てを
見てまいりましたけれど いかがでしたか。
何か 自分の父親を見てるような
感じがしました。
チャンスを与えて 手を出さない。
本人に任せて
成功するも 失敗するのも お前の責任だ
っていうことをやられていて。
自分が置かれている
立場のようでしたけれども
でも 前に進むだけではなくて…
…っていうふうには 今日 思いましたね。
自分の息子にも なるべく自分も
任せたっていうことを言いつつも
挫折しそうになったりとか
折れそうになった時には
客観的に それを見つめられるように
アドバイスするっていうのが
一番 いい方法かなというふうに
思いました。
今日は お越し頂きまして
ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
♬~
いや~ 信長の新しい一面は見られたし
菊之助さんの話 本当に深かったな~。
よし! できたぞ。
「我が背中頼れるように日々磨く」。
家に帰った頃には寝ちゃってるかな。
さあ お父さん 明日も頑張るぞ!
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