英雄たちの選択「山内容堂・大政奉還への道~酔いどれ藩主奮闘記~」[字]…の番組内容解析まとめ

出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「山内容堂・大政奉還への道~酔いどれ藩主奮闘記~」[字]

大酒飲みで、幕藩体制にしがみつく頑迷な君主とみられてきた土佐藩の山内容堂。そのイメージが変わりつつある。容堂からみた、もうひとつの明治維新の可能性を探る。

詳細情報
番組内容
幕末の土佐藩は揺れていた。武力討幕路線を主張する乾退助(板垣退助)に対し、後藤象二郎は大政奉還建白路線を主張した。後藤は、「大政奉還を幕府に進言できるのは、慶喜と肝胆相照らす容堂公しかない」と容堂を説得する。実は、容堂は、大政奉還の先の日本の政治体制をイメージしていた。歴史学者の家近良樹さんによれば、「雄弁な山内容堂がもう少し粘り強く国政に参画していたら、明治維新は、違う形になっていた」という。
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】高橋源一郎,家近良樹,中野信子,【語り】松重豊

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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キーワード出現数ベスト20

  1. 容堂
  2. 大政奉還
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  16. 山内容堂
  17. 大久保
  18. 天皇
  19. 日本
  20. 藩主

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

赤く透き通った ガラス製の杯。

江戸時代末期
ヨーロッパから輸入されたものだ。

ある幕末の英雄が
このグラスで酒を飲んでいたという。

刻まれているのは トナカイの紋様。

その人物が 広く西洋に目を向け

異国の文化をめでていたことが
うかがえる。

持ち主は 山内容堂。

土佐藩主として
幕末動乱に直面した人物である。

従来の容堂のイメージは

浴びるように酒を飲み

幕藩体制にしがみつく
頑迷な君主の姿。

だが 近年
そんな容堂像は 書き換えられつつある。

容堂にとって
最大のターニングポイントが

慶応3年の
大政奉還の
建白である。

封建領主 容堂が

なぜ封建制を終わらせる建白に
踏み切れたのか?

容堂と会見した
イギリス人 アーネスト・サトウは

次のように証言する。

その頭の中に
イギリス的なコンスティテューションを

作ろうという構想があったことは
明白だった。

しかし… 容堂の構想に反して
実際に議会が開設されたのは

その死後20年近くたってから。

容堂の構想は なぜ実現しなかったのか?

知られざる名君の奮闘に迫る!

容堂がなりたかった自分っていうのを

ひと言で むちゃくちゃに
表現しようと思うと…

…が 強かった人かなという。

「英雄たちの選択」
土佐藩主 山内容堂。

苦渋の選択に
明治維新のもう一つの可能性を探る!

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回は
土佐藩から見た

幕末を
見ていきます。

土佐といえば 坂本龍馬や後藤象二郎
板垣退助など

さまざまな英雄がいますけれど

藩の動きを決めていたキーマンは
前藩主 山内容堂でした。

磯田さん 今日は 容堂に注目する
ということですけれど…。

これ存外 面白い藩主なんですよ
見といた方がいいです。

容堂っていうのは
大酒飲みで 頑固者でっていう

ちょっと変わり者のイメージ
あるんですけれども

極めて能力高いです 開明派であって。

ところが その 性格や
パーソナリティーっていうのは

変わり者に見えるんですが

考え 思想の方はですね

僕は すこぶる…
私の意見ですよ これは。

世論のど真ん中。

当時の大名の平均値に
近い人であったように思います。

だけれども
西郷や大久保は だいぶ とっぴです。

そっちの方 引きずられていった
というふうに

やっぱ 考える歴史家も多いです。

じゃあ 容堂の頭の中に
脳内にあった世界は

なぜ実現しなかったのかという

こういう焦点の当て方で
容堂を見ていくとですね

これまで見えてこなかった
明治維新が見えてくる。

これを やってみたいですね 今日は。
うん 楽しみになってきました。

そして その容堂の実像とは
どういうものなのか

早速 見ていきましょう。

文政10年 山内容堂は
土佐藩主 山内家の分家に生まれた。

その運命が大きく変転したのは
22歳の時だった。

藩主が 2代続いて急死

断絶の危機に見舞われた
山内家の跡継ぎに

英明をうたわれていた容堂が
抜てきされたのだ。

想定外の藩主就任…
容堂は 更なる猛勉強に努めた。

藩士の次のような評価が残っている。

自信を胸に時代の荒波にこぎ出した容堂。

直面したのは 列強からの圧力だった。

嘉永6年 黒船来航。

ひたすら紛争回避に努め

和親条約を結んだ 弱腰な幕府外交は

自信家 容堂にとって
受け入れ難いものだった。

翌年 容堂は
1通の意見書を幕府に提出している。

2年後 船は完成し
江戸から高知まで回航された。

容堂は 進んだ西洋の技術を
積極的に取り入れ

国を守ることを主張した。

そのブレーンを務めたのが
参政 吉田東洋である。

東洋は
下級藩士だった 岩崎弥太郎を登用し

長崎での交易に当たらせるなど
積極的な通商政策を推し進めた。

海外情報の収集にも努めた。

これは 出漁中に漂流し
アメリカ船に救われて帰国した漁民

中濱万次郎を 東洋自ら取り調べた記録だ。

蒸気船の構造や

電信の仕組み。

東洋の報告する情報を
容堂は 貪欲に吸収した。

後に 容堂は 太平洋に乗り出し

発見した無人島を領有することさえ
構想するようになる。

だが 当時の幕府の政策の下では

諸藩の自由な海外進出など
望むべくもない。

幕府の体制自体を変える必要があった。

折しも 薩摩の島津斉彬をはじめとした
開明派の諸侯は

英明と評判の一橋慶喜を次期将軍に立て

諸藩の政治参加を実現すべく
運動していた。

容堂も この動きに同調。

しゅうとである
京の公家を通じて朝廷を動かし

慶喜指名を幕府に命じてもらおうと
画策した。

だが この動きは 幕府の逆鱗に触れた。

安政6年
容堂は 幕府から朝廷工作をとがめられ

隠居謹慎を命じられる。

時に 33歳。

志半ばで
政治の表舞台から退くこととなった。

品川の別邸に移り
面会や文通すら禁じられた容堂。

この時期 酒量もかなり増えたという。

当時 作った漢詩には
次のような文句がある。

そのころ 土佐では
思わぬ事態が起きていた。

容堂が右腕と頼む
吉田東洋が暗殺されたのだ。

下手人は 土佐勤王党。

リーダーの武市半平太は

身分差別に苦しむ
下級藩士の鬱屈した心情を

尊王攘夷運動へ
向かわせ
勢力を拡大していた。

その後 武市は新たに藩主となった
豊範を担いで

藩政を思いのままに動かすようになる。

文久2年には 上洛を果たし

尊王攘夷の旗頭 長州藩と組んで
京でテロを繰り返す。

更に…

文久3年 ようやく謹慎が解けた容堂は
朝廷と幕府の要請を受けて上洛。

混乱する政局を収拾しようと試みた。

ひとつき後
容堂は 京の藩邸で武市を接見した。

その様子を記した
武市の書簡が残されていた。

「先日 容堂様にお目通りした」。

「手ずから おちょうしを お取りになり

お上のお酌で頂いた」。

「半平太 酒はきらいか
菓子がすきかといって

お菓子1箱頂き
実に身に余るありがたきことだった」。

朝廷に食い込んだ武市には
容堂とて うかつに手を出せなかった。

だが 逆転の機会は すぐに訪れた。

文久3年8月
京で政変が起き

長州藩士と
攘夷派の公家が
根こそぎ追放された。

翌年の禁門の変でも 長州は幕府側に敗北。

尊王攘夷派は 都から一掃された。

容堂は この時を待っていた。

武市以下勤王党員を 次々と捕縛。

そして…。

慶応元年5月 1年半近い取り調べの末

容堂は 武市に切腹を命じる。

土佐勤王党は 壊滅した。

再び藩政を掌握した容堂は
家臣全員に命令書を下し

藩の方針を高らかに宣言した。

「これからは 富国の基を開き

強兵の実を得んと欲す」。

この時 抜てきされたのが 後藤象二郎。

吉田東洋の甥で その薫陶を受けた人物だ。

この年 容堂は 後藤を長崎に派遣。

5艘もの蒸気船を購入させている。

海外貿易で 藩財政を潤し 国を守る。

容堂は 富国強兵に向け 再び歩み出した。

う~ん 藩の内でも外でも
次々と問題が降りかかってきて

藩主はつらいよ
といった印象ですけれど

今回 お越しいただいている
ゲストの皆さんが

山内容堂の
どの辺りに注目されているのか

ちょっと伺っていきます。
中野さん どうでしょうか?

分家って難しい位置ですよね。

家格としては高いけれども

でも まあ 格下というか

そういうところから 能力をもって

選ばれた人っていうことで

恐らく
その職階制に関して

ややルサンチマンみたいなものも
持っていたでしょうし。

でも そこに頼らないと
自分のアイデンティティーも

証明できないというような
難しい位置の人ですよね。

そういうところから
能力に対するこだわりっていうのは

人一倍あったんじゃないだろうか。

ちょっと こう あの 開国通商とか

それから 議会政治とか
すごく合理的な考え方へのこだわりが

強かった人かなというふうに感じます。

やっぱり これは土佐ですね。
あ~。

これは 土佐って やっぱりね

特別な場所ですよ。
容堂だけじゃなくて まあ

坂本龍馬とか
岩崎弥太郎とか後藤象二郎とか

みんな リベラルに
海外の文化も受け入れていくのが

当たり前みたいな
感覚があった…。

要するに 土佐の土地が持っている

海 太平洋への志向と
その中に何人か優れた先駆者がいて

それを吸収できる
まあ 素地があったってことですね。

特に吉田東洋は 非常に英明な
学者でもあったので

そこから知識を吸収して

自然に そういう意識を
持っていったんじゃないですか。

え~っとね
容堂がなりたかった自分っていうのを

ひと言で
むちゃくちゃに表現しようと思うと…

むちゃくちゃ。
本当そうなんですよ! どう考えたって

たち悪いですよ~。

…で 何やるかって まず ものすごい
学問 学者 読書に対する尊敬。

頼 山陽だの
吉田東洋だの ものすごい好き。

…で おべっか言うやつ嫌い。
率直な物言いを好む。

ほいで 一方で 学者って
普通 おとなしくて品行方正だけど

品行方正なことをバカにする。

傍若無人の振る舞い 野蛮 蛮勇 大好き
こういうところが

彼の恐らく 僕は特徴で

ちょっとないパーソナリティーが
不思議なことを起こしたと。

そんな容堂ですけれど

一橋慶喜擁立運動が原因で
謹慎処分となってしまいます。

その間に土佐で勢力を伸ばしたのが
武市半平太の土佐勤王党でした。

容堂は 武市に お菓子をあげたりして
機嫌をね とっていましたけれど…。

武市のことで言いますとね
容堂が武市を 一応

吉田東洋を殺した犯人
根本の人間だと思って

恨みを持ちながらね
なぜ妥協したかって

ある程度 妥協したか
いうたら

やっぱり世論なんですよ。

攘夷派の持ってる
天皇を抱え込んでるように見えるね

世論の力をやっぱり恐れるんです。
…で そういう点ではね

容堂ちゅう人は
ものすごい冷静ですよ 柔軟ですよ。

決して単純なね 自分の感情だけでね

何かを ものを決めるなんちゅう
そういう人間じゃないです。

非常に冷静ですよ。 あの~ 私ね
ものすごい下世話なことを言いますとね

酒が飲めるかどうかなんですよ。
武市ちゅうのは

おちょこ2杯で駄目なんですよ。

武市がね あの こう… 飲めてね

談論風発という形でね
容堂と飲めたらね…。

やっぱり酒の力って いいと思うんですよ。
精神高揚するでしょ。

それなら あの~ ねっ 談論風発でね…。

何か ちょっと 相いれなさそうですね
高橋さん。 これは この容堂と…。

あ~ まあ 相いれないでしょうね。
…で そもそも なぜ 相いれないかって

僕は 容堂も含めてね
慶喜とか 当時の開明派の藩主たちって

僕はリベラル保守だと思うんですよ。

いわゆる頑迷な保守でもないし
ある種の寛容性を持ってるのは

このリベラル保守の
お殿様たちだったんですよ。

ただ 何でもっていうことじゃないね。
どっか守るべきものがあって。

やっぱり
容堂の場合は封建的身分制ですよね。

これだけは譲れない一点がある。

つまり 武市との関係で
俺の方が上と これだけは守ってくれと。

そしたら あとは許すと。

ところが 武市は それを守らないんで。
守ってない…。

要するに グイグイ来るでしょ。
つまり 最終的には

天皇の前に 僕もあなたも一緒みたいな。

いや それは違うよと。

ここが 僅かの違いなんだけども
根本的な違いですよ。

こうして 土佐の権力を取り返した容堂。
再び中央政局に乗り出していきます。

慶応3年5月 容堂は再び上洛した。

いわゆる四侯会議である。

薩摩の島津久光
宇和島の伊達宗城 越前の松平春嶽

そして容堂が
京で 将軍 徳川慶喜と共に

国政に当たるというものだ。

議題は兵庫開港である。

当時 西洋列強は通商条約を根拠に

執拗に兵庫開港を求めていたが

朝廷は京に近いという理由で
頑強に抵抗していた。

慶喜は前年12月に将軍についたばかり。

開港を実現することで 内外に
政治力を示そうと意気込んでいた。

ところが会議は予想外に紛糾する。

久光と宗城が 兵庫開港よりも

朝敵とされている長州の復権を

先にすべきだと主張したのである。

歴史作家 桐野作人さんは

そこには
薩摩の高度な戦略があったと指摘する。

…という形で できうれば

天皇の名前で
兵庫開港をしたいというのが

大きなねらいだった。
…で それは まあ 突き詰めて言えば

幕府の外交権を奪う
ということだったろうなと思いますね。

この絵図を描いたのが
久光の側近 大久保一蔵である。

幕府から
政治の実権を一挙に奪おうとする薩摩。

この時 慶喜側に立って
反撃に出たのが容堂だった。

秘策があった。

姦人とは ほかならぬ大久保のこと。

邪魔者を会議から排除した上で
容堂は更なる一手を打つ。

兵庫開港と長州処分 優先順位をつけず

2件同時に勅許してもらうという案だ。

この案ならば
あくまで慶喜主導で開港を実現できる。

慶喜は この案に同意。
深夜に及ぶ談判の末…

容堂の建策と 慶喜の粘りが
薩摩の策謀を阻んだのである。

薩摩は一気に態度を硬化させた。

もはや平和裏の政権奪取は不可能と
武力行使を視野に入れ始める。

そして土佐にも
これに同調した人物がいた。

乾 退助。

かつて
勤王党に同調していた武闘派である。

5月 乾は ひそかに上洛し
薩摩の西郷隆盛らと会見。

こう約束した。

この動きに
危機感を抱いたのが 後藤象二郎だ。

後藤は ある計画を立案。
長崎から 急きょ 京へ向かった。

容堂の側近の日記に
その計画が記されている。

幕府が政権を
朝廷に返上する

大政奉還である。

後藤は この案を携え 薩摩藩邸を訪問。

建白への協力を求めた。

西郷の反応は次のようなものだった。

乾との挙兵に動いていた薩摩が
なぜ後藤に同調したのか?

そこには薩摩のしたたかさがあった。

そこにはですね…

そこで…

土佐藩の2個大隊というのは 大体
1, 000人ぐらいの兵ではないかと

思いますけれども
それくらいの兵を上京させてですね

そしてまた 薩摩も上京させて…

後藤は 薩摩に 容堂の同意を得ることを
約束し 急ぎ帰国。

建白案を奏上し 判断を仰いだ。

乾の武力討幕路線か。
後藤の大政奉還建白路線か。

選択を突きつけられた容堂
その心のうちに分け入ってみよう。

幕府政治が行き詰まっている今
後藤の大政奉還は 確かに 一つの策だ。

朝廷のもとに志ある諸侯が集まり
その意見を取り入れて 政治を行う。

そうすれば 異国にも対抗できる
強力な国家が出来る。

幕府を終わらせるのは確かに大事業だが

慶喜公は英明なお方。

理を尽くして ご説得すれば
聞き届けていただけるはずだ。

だが 気にかかる点もある。
藩内の過激派の動きだ。

折しも 長崎で イギリス人船員が
殺害される事件が起きた。

イカルス号事件である。

イギリス側が 犯人は土佐脱藩浪士だと
一方的に決めつけたことで

藩内で攘夷論が沸騰。

武装蜂起が勃発しかねない状況の中

開国を進める後藤の意見は退けられ
乾への支持が高まっていた。

ここは 逆に乾を使って 薩摩と組んで

武力討幕を主導するという
策も考えられるか。

もともと わしは分家の出。

藩内の多数意見になりつつある
薩摩との共闘を拒めば

土佐の実権も失ってしまいかねない。

武力を用いて
率先して新政府樹立に働けば

わしの発言力は グッと大きくなり

理想の政治体制実現が近づくはずだ。

後藤の大政奉還か 乾の武力討幕か。

容堂に選択が迫られた。

今後 藩を
どの方向に動かしていくのか

容堂は選択を迫られました。

後藤象二郎が持ってきた
大政奉還か

乾 退助が主張する
武力討幕か。

皆さんの選択は
どちらでしょうか?

僕は大政奉還です。 選択は…。
大政奉還です。

どうしてかっていうと え~っと

もう彼は 随分以前から
日本は開国して

この中で 世界とどうやって
伍していくかって

もう頭切り替わってますから。

…っていうのが 第一に来てるので

だから 後藤の
あの建白書見て「これ これだよ」と。

これで まとめることができる
っていうふうに思ったと思うんですね。

で え~っと
さっきの後藤の建白書の中に

僕は いいなと思ったのは…

そうなんですよね。

だから 日本でやってる場合じゃ
ないでしょっていうことで

是非 大政奉還で。
大政奉還。 はい。

中野さん いかがでしょうか?

中野は…。
(高橋)中野は。

武力討幕で。
おお~ はい。

ちょっと これ あえてというか
ちょっと 思考実験的な

歴史のifみたいな感じで
選ぶというのもあるんですけど。

まあ ただ 武力討幕といっても

全面戦争を
いきなり始めるっていうよりは

地域的な戦闘を起こして
ちょっと こう

それを交渉に 有利に自分に
物事を進めるっていう形で

武力を効率的に使うっていう方法を
とるかなと思うんですね 自分なら。

新政権でのイニシアチブ
取りたいと思ったら

武力を見せておく必要が
やっぱり あるなというふうに

自分なら考えると思います。

家柄が低いことのデメリットって
多分 分かってると思うので

武力をプラスしないと 自分は正当性を
主張できないんじゃないだろうか

というふうに考えたと思うんですよね。

さあ 意見が分かれました。
家近さんは どちらを選択されますか?

私は まあ 大政奉還ですね。

というのはね
いろんなこと考えていくと 私…

慶喜が尊王家である。

朝廷 天皇を敬ってるっちゅうことを
一番よく分かったのは

やっぱり 容堂だと思いますね。

だから そういう
尊王家 朝廷を敬う 天皇を敬う

そういう人物であるならば
大政奉還の建白を

一番受け入れてくれるだろう
というのが読めたんだと思いますね。

ただ もし… 慶喜が蹴ったとき

これはね 容堂も
どこまで自覚したか知りませんけど

容堂の立場というか
土佐藩の立場ないですよ。

その時は 乾たちが考えてるような…

そういう面では 恐らく 私
容堂の人生にとって

最大のリスクを抱えた時だと
思いますね。

磯田さんはどうしましょうか?
うん。

僕は1 大政奉還。

ただし 武力討幕の選択肢を
捨ててない大政奉還。

(高橋)ずるいな それは。
ずるい?

それは… そんなのあり?
ありだと。 欲張りな…。

多分 あの~
2の武力討幕一辺倒でやると

あの~ 損得で言うとね 容堂は
考えてなかったかもしれませんけど…

しかも この時
土佐藩兵 1, 000人が持ってる銃は

「提供は薩摩でした」っていうやつです。

お金を出してもらって
龍馬経由でもらった薩摩の銃…

用意してもらった銃ですよ。

だから
勝ったとしても 絶対言われますよ。

「うちところのお金で買った銃 提供して
勝ったんだよね 土佐藩」ですよ。

こんな屈辱的なことはね
武家の社会でないわけで。

まあ いずれにしろ
選択は ハイブリッドバージョンで

よろしいでしょうか?
まあまあ 大政奉還から入ります。

はい ハハハハ。

さあ 容堂の選択は
どちらだったんでしょうか。

容堂は決断した。

結論は 大政奉還の建白。

しかも…。

後藤の出兵要求を拒み

あくまで言論の力で
建白を行うことを命じた容堂は

その先の政治体制を見据えていた。

そのことを証言しているのが

イギリスの通訳 アーネスト・サトウだ。

8月 イカルス号事件の捜査のため
土佐を訪れたサトウは

容堂 後藤と会見。

その様子を 次のように記している。

これは 最終的に幕府に提出された
土佐藩の大政奉還建白書。

二院制と選挙制度。

容堂が目指したのは
まさに英国型議会政治だった。

後藤はその後 京で幕府の重役と接触し

土佐単独で 建白路線を進めていった。

一方 薩摩にとって
兵力を伴わずに上洛し

建白を進める後藤の行動は
違約にほかならなかった。

彼らは 土佐との盟約を破棄し

長州とともに
武装蜂起路線に突き進む。

長州の指導者 木戸孝允の書簡によれば

土佐藩内でも
乾の一派は この路線に同調していた。

「討幕という芝居においては

乾さんの役柄が 最も肝要です」。

この手紙の宛先は 海援隊 坂本龍馬。

龍馬も この時点では
武装蜂起に前のめりだった。

そのことを表す品が残っている。

…というふうに伝わっております。

この年の9月 龍馬は 長崎で
1, 300挺ものライフルを仕入れ

そのうち1, 000挺を
土佐に持ち込んでいた。

土佐は依然 一触即発の状況にあった。

京の大久保たちは
総仕上げとして

朝廷工作に動く。

10月13日 薩摩藩に下された討幕の密勅。

賊臣 慶喜を殄戮せよ。

武力討幕は いよいよ秒読みに入った。

だが… 密勅降下のまさにその日

慶喜は 二条城に
諸藩の重役を集め 政権返上を明言。

翌14日 朝廷も
これを受け入れた。

大政奉還の
成立である。

決断の理由を 慶喜はこう告げたという。

実は 容堂が
後藤の建白案から削った条項があった。

次のような項目だ。

容堂は この条項を削除することで

慶喜が 諸侯の上に立つ体制を
残そうと図った。

慶喜は 容堂のその意図を読み取った。

2人の信頼関係によって
世界史上にも類を見ない

無血革命が実現したかに見えた。

容堂の選択は 1の大政奉還建白路線。

しかも 後藤が要求した
藩兵の上京も断って

あくまで言論でいく
というものでした。

家近さん この選択は
どのようにご覧になりましたか?

私は ものすごく感動するのは
やっぱり 改めて感動するのはね

後藤象二郎が
大政奉還の建白 持ってきた時にね

天下のためにね 周旋するのに

軍事力はいるか 武力はいるのか

いらないと。
出兵無用って言い切ったんですよ。

私ね そこにね 容堂の やっぱり
持ってる精神性の高さを感じますね。

あの段階 状況でね
なかなか言えないですよ。

あのね 容堂もね 慶喜もね
2人に共通してるのはね

ものすごい決断が はやいんですよ。

それから 実行も はやいんですよ。

あのね それは
あの2人の能力でしょうね。

あれね はやすぎて
ついていけないもんね 周りが。

そんなにですか。
だから たまたまね 私

あの時期にね そういう2人のね
判断力があって決断力がある人間がね

ああいう形で
こう 組んだっていうのはね

あの~
日本の歴史でも奇跡だと思いますよ。

慶喜と容堂の その
パーソナリティーの関係っていうのは

すごく面白いなと
思うんですけれども

慶喜という人は あの 開放性が
高いように見えるんですけれども

内向性というところも高いのかなという
印象があるかと思うんですね。

外に目が向くようでいながら
自分の内面の方が

より関心が高いのかなと思わせる節も
あるかなと。

で そうすると
容堂という人は とても こう

信頼関係があると同時に
便利な人でもあって

自分の代わりに
新しいものを もたらしてくれたりとか

ちょっと こう おにいさん的な
メンター的な役割というかね

そういうところを肩代わりしてくれる

というところも
あったんじゃないのかなと。

あの~ 容堂にとって その自分の能力が
一番発揮できるのが

イギリス型議会政治に近いものだった
という説明がありましたけれど

これについては 高橋さん どう…
近いものなんですか?

近いものだったと思います。

さっきも
ちょっと出てきたと思いますけど

容堂は 海外の政治システムについて
非常に興味を持っていて

で これは上院下院があって
で 上に国王 女王がいると。

で 要は権限を持ってないと。

上院が まあ貴族院みたいなもので。

で これが まあ… 大名会議。

これ ぴったりじゃないですか。

だから イギリス型っていうのは
革命も起こさず 貴族も保存して

なおかつ 議会政治で
デモクラティックにしゃべると。

つまり 封建体制のまま
ソフトランディングして

西洋のと同じシステムになるでしょ?
はい。

これはもう 容堂にとっては
ベスト オブ ベスト。

そっちに軟着陸させる
可能性ができたっていうことで

すごく喜んだんじゃないですか。

あの~ 慶喜も同時期に やっぱり
幕府のお抱え西洋学者に

外国の議会制度とかを…

国体っていうかね 国家制度を
調べさせてるんですけど

まあ 大名の議会は作るんだけど

参考程度みたいなことを 頭には
やっぱり 置いているようだから

やっぱり 容堂
慶喜を信じすぎだなと思いますね。

慶喜の心の中には あの~ 実際

議会いいでしょう
大政奉還もいいでしょう

天皇が あの一番上になる
いいでしょうと

言っときながら やっぱり…

中野さん このイギリス型議会政治について
どう考えます?

これは 容堂の理想ではあったでしょうね。

イギリス人も海の文化なんですよね。
あ~ 囲まれてますもんね。

そうそう。
やっぱり 海… 貿易したりとか

海によって
まあ 富を蓄積するという文化。

え~ そうすると こういうところの人の
はっきり ものを言って

自分に対論があることを辞さない

むしろ 対論があることによって
よりよくなると思ったりもします。

議会政治というのが発達しやすいと
思うんですけれども。

残念ながら 日本は そうではない
多くの人は そうではない。

容堂のようでは ないんですよね。

21世紀になっても 日本人は
ほかの国に比べて

自分と対論を示されると…
意見に反論されると

人格否定されたというふうに思うので
非常に それ 嫌がる…。

そうだよね 本当に。
合意形成が なかなか…。

分かります。
本当に よく分かる。

…というのが
日本型の合意形成の方法なので

こういうところでは
議会制民主主義っていうのは

ちょっとイギリス型のようには いかない
ということを

容堂が どれだけ分かっていたのかな
というのは やや疑問が残ります。

ということで 大政奉還という
一大事業を成功させた容堂ですが

その先には 思わぬ結末が待っていました。

大政奉還を受け入れた朝廷は
10万石以上の大名に上洛を命じた。

新たな政治体制は 諸侯会議に託された。

この時 土佐は藩主ではなく容堂自身が
上洛を命じられている。

朝廷は 容堂が会議の中心となることを
期待していた。

だが 容堂は すぐには動けなかった。

藩内の反対勢力の説得に手間取り

上洛は
予定より半月以上ずれ込んでしまう。

他の藩主も
財政破綻や藩内不統一を口実に

一向に動く気配がない。

その間隙をついて動いたのが薩摩だった。

慶応3年12月9日。

大久保は倒幕派の公家
岩倉具視らと共謀。

御所を舞台とするクーデターを決行した。

その日の夜に開かれた小御所会議。

幕府寄りの公家が 全て排除される中

前日に ようやく上京した容堂は

岩倉たち倒幕派に 敢然と立ち向かった。

何より許し難かったのは

平和的に政権交代を申し出た慶喜が

会議への参加すら
認められていないことだった。

容堂の正論が会議の空気を支配した
その時

口を挟んだのが
下座に控えていた大久保だったという。

慶喜排除を主張する岩倉と
慶喜復権に こだわる容堂。

議論は 平行線をたどり
会議は 一旦 休憩に入る。

ところが 再開後 様相は一変した。

中断前とは 打って変わって
容堂が沈黙を通したのだ。

理由は
現在に至るまで明らかになっていない。

ともあれ 最大の論客 容堂の沈黙によって
会議は 慶喜排除で まとまったのである。

明治に入り
容堂は 政府の名誉職こそ務めたものの

政治の表舞台からは 姿を消した。

その晩年を物語る貴重な史料が

高知城歴史博物館に残されていた。

これは 「容堂公箱根旅行絵巻」
という まあ 絵巻物です。

容堂が明治4年の5月から7月
約70日間かけて

箱根を旅行した時の様子を描いた
絵巻物です。

墨絵で描かれた箱根の名勝。

芦ノ湖に舟を浮かべ
月夜の富士を眺めるといった

浮世を離れた絵の中に
興味深い一枚があった。

道中で目の当たりにした横浜の風景。

西洋館が立ち並び
おびただしい外国船が訪れる港の姿は

かつて 海外雄飛の大志を抱いていた
容堂の目に

どう映ったのだろうか?

旅から僅か1年後 容堂は亡くなる。

46歳という若さだった。

うん…。 大政奉還で平和的な政権交代が
実現したにもかかわらず

薩摩は クーデターに踏み切りました。

家近さん この容堂にとっては
ちょっと思わぬ形という感じですか?

大久保なんかが
ああいうクーデターやったっちゅうの

やっぱりね 私 なれ合いの精神が
もう まん延してる中でね

一種の 私は ショック療法という
どうしても必要であったと思いますね。

もう一つだけ言いますとね
なぜ 小御所会議のあと 休憩の時に

容堂が黙ったかいうたら やっぱり…

そうなると 非常に自分にとっても
土佐藩にとっても都合悪いということで

ここは ここはね… ここは
ちょっと 引いておこうかみたいな

私ね そういう冷静な判断したと
思いますね。

ただ 徳川… やっぱ 甘かったんですね。

この辺が
やっぱり 政治闘争の究極なので

もう ものすごいリアリズムなんですよね。

そもそも イギリス制議会主義でしたから。
弁論で。

それに対して やっぱり 革命を行うと。

で やっぱり…

多数の人たちが いや 何か これ 討論して
話が通じたって言ってる間に

全部 ひっくり返すっていう瞬間が
どっかにあるんですよね。

容堂が そのことに気が付けば

僕は ちょっと 調べてるうちに
容堂ファンになっちゃったので

惜しかったっていう気がしますね。
(笑い声)

中野さんは どう考えますか?

大久保利通と山内容堂の やっぱり…

対話を機軸とする容堂のやり方
っていうのと

すごく 根本的に違うんじゃないかなと
思うんですね。

だけども 大久保利通のやり方は
そうじゃない。

相手に対して
もう完全に信頼してないんですよね。

信頼してないから
コントローラブルでなきゃいけない。

で そうすると 慶喜みたいな人
置いとくわけにはいかないというふうに

やっぱり 根本的に信頼してないんだと
思うんですね。

自分に対しても 信頼しすぎたのかも
しれないとも思います。

どう考えたって 容堂が正論なんですよ。

ただ ちょっと思うのは

みんな自分と同じと思いがちなところが
人間にはあって

容堂は みんな大名が
こういう議会に賛同すると

思い過ぎてる面もありますね。

大名は じゃあ 列侯会議して
殿様会議してっていって

じゃあ 天皇のもとで集まって
議会やりたいかっていうと

そうでもなくて… あんまり そんな…

熱心な人たちばかりではないですよね。
うん…。

多分 慶喜や自分は
大名間で議論をすると

割と 雄弁だし 知識もあるし

そういうもの やってみたいと
思ってるけれども

その面は
あんまり考えてないのかもしれませんね。

さあ 今日は 山内容堂について
見てきましたけれど

皆さん 改めて どんなことを感じたのか
伺いたいんですが

家近さん いかがでしょうか?

そうですね…。

容堂が もっと体調がよくて 粘り強く

大久保なんかのような陰険なやり方を
抑えていたら

新しく出来た国家っていうのはね
もうちょっと緩やかな

日本的なね いろんなものが
混とんと混じった新しい国家が

出来ていったんじゃないかなと思います。
ただ その分 改革のスピードは

緩くなるし
それから 領主制の廃止という

明治維新にとって 最も大きな成果が
実現するのがね

廃藩置県も含めて遅くなっただろうと
思います。

だけども
もうちょっとね ゆったりとした

効率いっぺんやりじゃない国家づくり
っちゅうのが進展して

私は それはそれで 明治後の…
富国強兵路線みたいな

ああいうのとは違う 何とも言えん面白い
新しい国家が

出来ていったんじゃないかと思います。

容堂が もう一頑張りしてくれたら

日本に イギリス型議会政治が出来てて…。

日清戦争も日露戦争も
起こらなかったかもしれないなと思うと

今 ここにいて
まあ 僕たちの目の前に社会があってね

もしかして 今 選択を
迫られてるかもしれないじゃないですか。

何で あそこで
もっと突っ張らなかったんだよって。

って 100年後に言われるかもしれない。
ああ そうか。

まあ そんなことを考えながら

すごく豊かな可能性があった
というふうには思いますね。

その後の昭和史とかも変わったかも…。
変わったかもしれませんね。

まあ 考えてみると 惜しい人ですね
寿命の点でもね。

容堂が持ってなかった46歳から
55歳までの10年間の寿命だったわけです。

この時に 日本は…

この幼虫であった日本の時に

オルガナイザーである容堂が
酒を飲んで死んでいるという。

それで
その容堂の気持ちを知っているのは

子供の肩を抱きながら写真に写ってた
板垣退助で…

っていうことを考えると
自由民権運動の時代

そして
まあ 戦後民主主義っていう時代に

言論で
何か議会やったりとかいうところに

何となく 薄くは
土佐や容堂の遺伝子ってもんが

入ってるのかもしれないですよね。

現代世界も
力で 相手を従わせるという主義と

それと理屈と意見で合意形成するという
立場のせめぎ合いが続いてますよね。

まあ そういう時に
いるべき人が いなかったっていうのは

大変だということもあるから

やっぱ お酒の飲み過ぎは よくない
というのが結論じゃないですかね。

今日はね。 ええ。

飲み過ぎ… たしなむ程度にしてください。
気を付けます。

はい。 フフ…。 皆さん 今日は
どうもありがとうございました。

Source: https://dnptxt.com/feed

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