出典:EPGの番組情報
先人たちの底力 知恵泉「今こそ弥生に学べ!社会の大変革を乗り切るには」[解][字]
縄文から弥生への大変革、「稲作」の始まり。食料確保の手段が得られた一方、その余剰は人々の対立をもたらした。常に変化する現代社会を乗り切るヒントを弥生時代に学ぶ!
番組内容
縄文から弥生にかけての社会の大変革。それは「稲作」の始まりだ。狩猟採集から農耕の生活への変化は、ライフスタイルや社会のあり方まで、大きな影響を及ぼした。食料確保の手段が得られた一方、その余剰は貧富の差を生み出し、人々の対立という“負の遺産”ももたらした。当時の人々は、どのようにこの大変革を受け入れ、そこから生まれる対立を乗り切ろうとしたのか。常に変化する現代社会に向き合うヒントを弥生時代から学ぶ。
出演者
【出演】坂野晶,池田貴史(レキシ),東北大学名誉教授…吉原直樹,【司会】新井秀和ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
テキストマイニング結果
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キーワード出現数ベスト20
- 稲作
- 大変革
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- 弥生
- 一緒
- 時代
- 存在
- 必要
- クニ
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
この歌の歌詞にご注目!
♬~
レキシさんが歌う「狩りから稲作へ」。
そう 縄文から弥生への大変革
それは稲作の始まりでした。
日本列島を
気候変動による寒冷化が襲います。
落葉広葉樹の森は 針葉樹林に変化。
重要な食料の供給源だった
クリ林などを失ったことで
衰退する村も出てきました。
そこに 朝鮮半島から入ってきたのが
稲作です。
従来の説では 狩猟採集よりも
食料の確保が見込める稲作に
人々は飛びつき 瞬く間に
日本中に広まったといわれてきました。
しかし 近年 この説は否定され
九州で稲作が始まってから
関東に伝わるまで
700年もの長い期間がかかっていたことが
明らかになってきました。
(藤尾)そういうシステムになってる
ということですね。
生活スタイルまで影響する
「稲作」という大変革。
そこには
プラスとマイナスの両面がありました。
稲作は農地を広げれば その分 収穫も増え
多くの人を養えます。
その一方 生み出された余剰は
持つ者と持たざる者の貧富の差を
もたらしました。
凶作だった村が 豊かな村を襲うなど
縄文時代にはなかった 「人々の対立」が
起こるようになったのです。
縄文から弥生へ。
稲作という大変革を 人々は どのように
乗り越えていったのでしょうか。
今回 弥生人の知恵を読み解くのは…
徳島県上勝町で 廃棄物削減政策を担う
団体の理事長に就任し
リサイクル率80%の達成に貢献。
残りの20%近くを上勝町だけで減らすのは
難しいと考えた坂野さんは
素材や製品設計などを
見直す必要があると
企業 そして社会の仕組みを変えていく
働きかけをします。
現在は ゴミゼロを目指す活動と並行して
脱炭素社会の実現をけん引する
次世代のイノベーターの育成にも
取り組んでいます。
縄文から弥生への
大変革を乗り切る知恵を
坂野さんと レキシこと 池田貴史さんは
どう読み解くのでしょうか。
いや~ 今日も ご来店
ありがとうございます。
また来ちゃいました。
で レキシさん 縄文土器 弥生土器
結局 どっちが好きなんですか?
聞きますか それを。 立場上 やっぱり
どっちかって決められないので
いまだに答えを探してるとでも…。
なるほど なるほど。
まさに 「どっちもドキ」っていう。
すみません。
そういうことなんですね。
こっちもドキドキ まだしてますよって。
はい。
さあ そしてですね 坂野 晶さん。
ゴミを出さないようにする
「ゼロ・ウェイスト運動」などでね
社会を大きく変えよう まさに
社会の大変革に対応していこうという
活動をされているわけなんですけれども。
どうですか? この弥生時代。
そうですね 卑弥呼がいてとかですね
結構 統制がとれた社会が
生まれていくような一歩なのかなみたいな
イメージはあったんですけど。
何か それ以上のイメージは
まだ ちょっと湧いてないのでですね
今日 楽しみです。
さあ 今日はですね 変革の時代をですね
社会学の視点から読み解いて頂こう
ということで
東北大学名誉教授の吉原直樹さんにも
お越し頂いています。
よろしくお願いいたします。
先生は 弥生という時代
どんなふうに見てますか?
やはり こう 非常に大きな社会がね
変わっていくという 移行期ですよね。
ただ この移行期というのは
非常に長期間にわたっていますよね。
現代というものも
グローバライゼーションの中で
非常に大きく
動いていようとするわけですよね。
だから そういう点で言うと…
そんなふうに考えております。
やっぱり 今と通じるということですか
それ やっぱり。
僕が歌ったことは間違いじゃなかった
っていうことが
もしかして
証明されるかもしれないですね。
さあ 今日はね そんな大変革の弥生時代を
見ていくわけなんですけれども
こんなメニューをご用意いたしました。
こちらでございます。
今日は 「変化」が
これ テーマになっていきますから。
「変化」 「おかわり」。
ああ~ 変わる! なるほど。
ダジャレですね。
あっ…。
ごめんなさい。
そうか 言っちゃいけない…。
いや 改めて言われると
ちょっと恥ずかしいなっていう
ダジャレなんですけど。
こういうものなんですよ 要はね。
古代米…。
古代米っていうのは
古代に栽培されていたイネの特徴を持つ
イネからとれたお米でね。
白米ではなくて 赤とか黒などの色が
ついていますけれども。
この隣の田作り。
古くは カタクチイワシの稚魚が
田んぼづくりの肥料として
使われたということで
豊作を祈願する食べ物として
おせちなんかに
入ってるということなんですけど。
ちょっと 何か 今日のテーマに合ってると
思いません?
お試しセットっていうのは
どういうことなんですか?
気になりますよね?
僕らが試されるっていうことですか。
おいしいかどうか 新メニューの。
実はね この「お試し」っていうのが
このあとの大切なキーワードに
なってきますので
その辺りも ちょっと
楽しみにして頂ければと思いますが。
まずはですね 大変革といわれる稲作が
実際 どのように広がっていったのか
最初の知恵からご覧下さい。
福岡市博多区にある 板付遺跡。
1978年 この場所から
古代史を書き換える大発見がありました。
こちらの水田跡です。
それまで 縄文時代に
稲作は行われていないとされてきました。
しかし この遺跡からは
縄文晩期の様式を持つ土器と
農耕に使う木製の農具や石包丁などが
一緒に見つかったのです。
九州北部では その後も
古い水田跡が次々と発見されます。
出土した土器についた煤の分析などから
これまで 紀元前4世紀から5世紀に
始まったといわれていた水田稲作が
それより500年早い
紀元前10世紀後半に
始まっていたことが明らかになりました。
九州北部で
500年早く始まるわけなんですが
これがまた…
ようやく…
そして 近畿地方から
名古屋辺りに行くのが紀元前6世紀。
しかし このあと 稲作は
東海道を東に進まず
日本海側から海を渡り
紀元前4世紀に
東北北部に
伝わります。
そして 関東地方で稲作が始まったのは
紀元前3世紀。
九州北部に稲作が伝わってから
およそ700年後のことでした。
稲作は 従来言われていたように
瞬く間に広がったのではなく
段階的に時間をかけて
広まっていったのです。
福岡市を流れる室見川。
この川沿いに 稲作が
どのように伝わっていったのかを示す
遺跡があります。
川の下流にある有田七田前遺跡と
中流にある四箇遺跡です。
2つの遺跡の距離は
僅か4キロ。
それほど
遠く離れてはいませんが
それぞれから出土したものは
全く違うものでした。
有田七田前遺跡からは
朝鮮半島の無文土器の影響を受けた
種もみ貯蔵用の壺や甕。
そして 水田稲作に使う大陸系磨製石器の
農具などが出土しました。
一方 四箇遺跡から見つかったのは
狩猟採集を生業にする人々が使う
漆塗りの腕輪や土偶 勾玉などでした。
つまり 室見川の下流の湿地帯には
稲作を行う渡来系の人々が住み
中流には 狩猟採集生活を送る人々が
住んでいたことが分かったのです。
縄文人にとって…
そんな木の実もならないし
シカやイノシシもいませんから。
逆に…
(藤尾)ですから…
だから もともと自然に…
渡来人たちは
米や農耕に使う道具類だけでなく
豊作を祈る祭りや儀式なども
持ち込みました。
こうしたことが 四箇遺跡の人々が
稲作をすぐに始めなかった
理由ではないかと
藤尾さんは考えています。
農作業自身もそうですし
それから その 結局
生きていくために必要な
社会のルールだとか
彼らのモノの考え方
それから 彼らが大事にしている
シンボリックなものに対する考え方とか
簡単に言うと 現在の言葉で言うと
宗教とか信仰ということに
なってしまうんですけど
そういうものまで変えないと
やはり 水田稲作には
取り組めなかったのではないか
っていうふうに 現在 考えてるんですね。
室見川の中流では
広がらない稲作。
ところが そこから東に
およそ20キロ離れた
御笠川の中流にある板付遺跡では
稲作が行われていました。
これは どういうことでしょうか?
板付遺跡の発掘に携わった山口譲治さんは
この遺跡こそ 渡来系の人たちが
狩猟採集生活の人々に
稲作を始める指導をしていた
いわば “稲作のお試し”をしていた
ところではないかと考えています。
(山口)最初の田んぼっていうのは
この辺りから始まってます。
この辺りに 大体 2列6枚ぐらいと
次の区画も この6枚。
これぐらいが一番最初に作られた
水田やないかなと思われます。
3, 000平米から約4, 000平米ぐらいの…
集落に入って
説明はしたと思うんですけど…
そういった中で やっぱり そうね…
最初に稲作に協力した縄文人は
50人くらいだったのではと
山口さんは考えています。
積極的に始めた稲作では
なかったかもしれませんが
最初に作った水田から収穫した米は
山口さんの計算では
400キロにも上るそうです。
意外と稲作って まあ 私も
今年から実験を始めたんですけど
意外と ほってても
できるものなんですよね。
だから これは やっぱり 当時の人も
意外と…
…っていう感覚で持ってたっていう気が
してますけど。
稲作に参加する人は 徐々に増え
板付遺跡の集落は
最盛期には 500人にまで増えたと
考えられています。
稲作という大変革は このように
人々が変化を少しずつ受け入れていく
という過程を経て
成し遂げられたものだったのです。
すごい さっきのVTR まさに 僕の曲
そのもののような気がしたんですけど。
やっぱ 狩りやってた人が すぐに稲作
上手にできるっていうのも
少なかっただろうし
俺は だから 稲作できないなあと
思ってんだけども
例えば それこそ 好きなあの子が
渡来人が来て
稲作の人に すごい仲よくなってたら
ちょっと 狩りやってるやつは
何か やきもち焼いてみたいな。
俺も稲作やろうかなみたいなね。
まさに その どんどん
人が増えていく様とかも含めて
う~ん 情景が思い浮かぶようでしたね。
奥が深いですね。
坂野さんは いかがでした?
ご覧になって。
やっぱり 試してみる場所を作るって
すごい いいなあと思いましたね。
やっぱり 何か 始める時も
どこかで試してやってみて
見せてみるって
すごい大事だなあと思ってるので。
そうですよね。
でも 先生 どうなんでしょう
稲作が すぐに広まらなかった理由
これは何でだと?
一般にですね 変化という
大きな こう 何て言うんですかね…
言葉は難しいんですけど…
雁行的?
つまり どういうことかというとですね
異なるものが 並立しているというね。
それから 何かこう
前後して進んでいくとかね
そういったことですよね。
分かりやすく図で表すと
「雁行」というのは
雁という鳥が列をなして飛ぶ時のように
常に先頭が決まっているわけではなく
前後しながら進んでいく
形のことなんです。
そして こんな広がり方もあります。
何かこう
物事が均整をとれた状態ではなくて
何かこう 非常にアンバランスな形で
進んでいくと。
その2つの広がり方が
同時にあったっていうことですか。
そうですね。 それで しかも それが…
これも やっぱり 弥生の まあ ある意味で
こう 魅力じゃないかなあと
私は思いますけれども。
いろんな伝わり方を… だから
こんなふうに伝わったんだって
ひと言では なかなか言えないところが
面白さと? そうですよ。
だって イネ 育てるのって ねえ
水も たくさん必要とか
そういうのを一つ一つ… だって
一から分かっていかないと
ってことですもんね。
道具もそうですもんね。
そうですよね。
いろいろ試行錯誤があったんでしょうね
やっぱりね。
そうするとね
まさに 当時の人たちにとっては
もう 一歩一歩の積み重ねというのがね
まさに ここの知恵なんですけど。
坂野さんなんか 「ゼロ・ウェイスト」の
ゴミをゼロにする活動なんかもされて
社会を変えていこうっていう中で
一歩一歩の積み重ねの大変さっていうのも
感じてらっしゃるんじゃないですか。
そうですね やっぱり まあ
ゴミを減らすって
みんな まあ 大事だよねって
思うかもしれないんですけど
じゃあ 実際やれるかって言われると
どうしても こう ハードルが
意外と高かったりするので。
一つ一つ 何からできるかな
というところも 大事ですし。
あと 先ほど 先生が 地域差があったって
おっしゃられたと思うんですけれども…
徳島県のね 上勝町は
80% リサイクルっていうね… ことで
あれ 45種類ぐらいに分別していて。
紙だけでも
9種類ぐらい分けるわけですよ。
え~っ!
でも それができるのは
地域性っていうものもあった
っていうことなんですかね。
あの地域の中で 環境に対して
ものすごく頑張ろうっていう意識が
あったわけでも
必ずしもないんですけれども
じゃあ 地域のためだったら
やってもいいんじゃないかとか
周りが みんな 頑張ってるんだったら
まあ 私もやろうかなとか そういうものの
積み重ねだったのかなと思いますね。
あと 分別も いきなり
45種類から始めたわけではなくて
最初は 9種類ぐらいから
ちょっと始めてですね
徐々に増やしていったとかっていう流れも
あったと思います。
なるほど。 そうですよね。
レキシさんなんか どうですか
音楽の仕事をされている中で
いろんな まあ 転換点とかね
一歩一歩進んできたみたいな
そういうのってあります?
例えば 曲作りなんかも
「はい 作ります」って言って…
一歩ずつじゃないものは
多分ないですね 音楽も。
でも やっぱ あれですか その…
歴史をテーマにした曲がね
多いとなりますと。
そうなんです 大変なんです これがまた。
すいません!
自分でやっていて あれなんですけど。
いやいや いやいや。
例えば 日本史のことだけを勉強しても
音楽にはならないというか。
音楽聴いて そこから日本史のことが
浮かぶみたいなのもあるので。
だから 本当 何がヒントになるか
分からないので
そういう意味では 常日頃 アンテナを
張ってるっていうことになりますね。
そうですよね。 なかなかね
やっぱり 一歩一歩といっても
まあ 進まないところもあるかなって
思うんですけど
坂野さんなんかね やっぱり
どうなんですか? そういう時は。
いや まあ あの やってみて
うまくいかないことって
多分 皆さん
何でもあると思うんですけど
まあ 1回うまくいかなかったから
そのやり方が失敗かと言われると
そうでもないとかもあると
思うんですよね。
何か その時 タイミングとして
まだ早かったとかっていうこともあると
思っていて
なので まあ 同じやり方なんだけれども
タイミングと人と場所が変わると
うまくいくこともあるので
まあ 意外と
またやってみるっていうだけでも
成功するかもしれないとか思いますね。
何か 時代が追いついてくるみたいな。
そうです そうです。
なので 最近 それこそ
「ゼロ・ウェイスト」っていう言葉も
最近 結構当たり前に 皆さん 少しずつ
知ってきて頂いてるんですけれども
当初 この
「ゼロ・ウェイスト」宣言というものを
徳島県の上勝町が始めた頃は
「何だ それは」っていう
時代だったわけで
ちょっとずつ追いついてきていて
今 言うと 共感してもらえる方は
もっと増えてるとかっていうことは
確かにありますよね。
何かこう やってみて
うまくいかないってなると
もう それはダメだったんじゃないか
っていうふうに…。 ありますね。
ねえ 思っちゃうけれども
もう一回やってみるっていうのも
ありっちゃありかもしれないですね。
そうですね 意外と。
でも 先生 どうですか
その大きな変革を成し遂げる
そういう時に ポイントになる部分
っていうのは 何なんでしょうね?
そうですね 変革というとですね
すぐに結果がどうなるか
というようなことを言われますけどね
多分…
だから そういう点で言うと むしろ
一歩一歩という話もあったんですけどね…
さあ 狩猟採集から稲作へというね
まあ 大変革ですよね。
大きな変化を受け入れた
弥生人だったわけですけれども
実は これによってですね
縄文時代にはなかった
新たな問題に直面することになる
ということで
どんな問題で それをどう乗り越えたのか
2つ目の知恵です。
人々の生活スタイルは
稲作を生業にしたことで
大きく変化します。
例えば 米は肉や魚と違い
長期間 保存がきくため
安定した食料の確保が
見込めるようになりました。
更に 農地を広げれば
その分 収穫量も増えるので
養える人の数も多くなります。
こうした稲作への転換は 皆にとって
いいことずくめのように思えますが
実は同時に 縄文時代にはなかった
“負の変革”も もたらすことになるのです。
九州大学旧工学部本館にある
総合研究博物館には
そのことを示す人骨が保管されています。
この人骨は スダレ遺跡というところから
出てきた人骨で
男性で 大体 40代ぐらいだと
推定されています。
こちらに 石剣が刺さっている。
首の付け根辺りを背後から狙われて
逆手に武器を持って
こう 振り下ろしたような一撃を
加えられていると考えられています。
この骨の人物が どのような事情で
刺されたのかは 分かっていません。
ただ 殺傷痕のある骨は
縄文時代の遺跡からは
ほとんど見つからず
弥生時代になり
数が増えていることから
稲作の普及と関係があると
考えられています。
水田を形成していくのにあたって
水路を引いたりする必要があるので…
(米元)また水田を開発していくにあたって
人口が増えているので
新たな土地に田畑を作って…
水田を作っていくようになる。
こうして 村に住む人々の中に
自分の村と よその村という
区別が生まれ
村の周りに堀を巡らせた
環濠集落が作られるようになります。
利権や財産などを巡る個人同士の争いは
やがて 村同士の対立にまで
発展してきたのです。
大変革がもたらした負の遺産。
人々は こうした争いを
どう収めようとしたのでしょうか。
「三国志」で有名な「魏」の国が書いた
「魏志倭人伝」には
当時 倭国と呼ばれた日本には
「奴国」「伊都国」「邪馬台国」など
いくつも クニがあったと書かれています。
佐賀県にある吉野ヶ里遺跡。
2.4キロの外堀を持ち 日本最大級の
弥生遺跡と呼ばれる この遺跡も
そうしたクニの一つだと
考えられています。
この遺跡の発掘調査から
当時の社会システムを
うかがい知ることができます。
クニの支配者の存在と
その力の大きさを示しているのが…
ここに埋められていた
甕棺と呼ばれる棺から
当時 貴重だった銅で作られた剣と
ガラス製の管玉が見つかりました。
その周辺からも
同じような副葬品が納められた棺が
次々と発見されました。
一方 別の場所にある集団墓地から
見つかった棺の多くに 副葬品はなく
支配する者と される者
持つ者と持たざる者という
階級や貧富の差が この時代に
生まれていたことが分かります。
吉野ヶ里の中には
こうした支配する側 される側の
双方から必要とされた人がいました。
それが…
高い柵で守られた こちらの区画には
3層建ての巨大な建造物が建てられ
シャーマンが さまざまな儀式を
行っていたと考えられています。
その儀式の多くは 稲作に関するもので
災害から稲を守り 豊作を祈り
収穫を感謝するものでした。
神との間をつなぐ存在であるシャーマンを
人々は信頼し
中には ほかのクニにも知られるほどの
人も出てきました。
福岡大学名誉教授の武末純一さんは
シャーマンは 稲作には
必要不可欠な存在だったと言います。
ずっと…
そうすると…
クニに問題が起きた時
シャーマンは儀式を行い
御託宣で方向性を示しました。
それにより 支配する者も される者も
対立ではなく
同じ方向を向くことができたのです。
「魏志倭人伝」には こうしたシャーマンの
存在の大きさを伝える記述があります。
そこで…
力を持った同士…
取りまとめられていくというふうなことに
なるのではないかなと。
そこで…
大変革に伴う負の遺産 「対立」。
それを乗り越えるためには
誰もが共感し
納得するような方向性を示すことこそが
必要だったのです。
いや~ 何か ちょっと複雑ですよね。
ここから 本当 それこそ戦いの歴史が
始まったんだなあと思うとね
なんとかならなかったのかなと思いつつも
やっぱり 便利になっていったって
そういうことかなとか
いろいろ思ったりして…。
そうですよね。 先生 どうなんでしょう
稲作でですね
人々に対立を生んでしまうって
これは 何て言うんですか
しかたのないことなんですか?
そうですね。
しかしながら
余剰の分配っていうんですかね
あるいは その余剰の配分を巡って
まあ いろんな人間関係に
きしみが できてくるわけですよね。
だからといって 対立とかね
まあ ある意味で 格差っていうのがね
必ずしも こう
ネガティブに見るんじゃなくて
やっぱり
そういったものが出てきたからこそ
卑弥呼が出てくるとかね。
…というふうに考えた方がいいと。
要するに こう 分かりやすく言えば
コインの両面みたいなものとして
捉えていった方がいいんじゃないかなと
そんな感じがいたしております。
なるほどね。
そして ここの知恵がですね
「対立を越えて 方向性を示せ!」
ということだったわけですけれども。
弥生時代においては シャーマンがね
その役割を担っていた
ということだったんですけれども。
先生 このシャーマンっていうのは
社会にとって どんな存在と?
何て言うんですかね 文化人類学では…
そのシャーマンというのは
「ケ」の日常から 「ハレ」の非日常
祭りなんか まさにそうなんですけどね
そこに こう 持っていく
そういう力を持った人
ということですよね。
日常の日々のつきあいの中で
出てくるようなね
そういう苦しみとか 悩みですね。
そういったものから解き放つような
社会的な役割を持つ人というのが
シャーマンといわれてますよね。
そうしますと シャーマンというのは
明確な指示をしてくれるような
そんな存在だったんですか?
私はですね そういう点で言うと…
ただ その場合に…
なるほど。
みんなが向かうところは一緒ですもんね。
やっぱり 1つの その
よくしようということに向かって
ねえ やっぱり行くのでね。
そうですね。 やっぱり 何に…
まさに ここの知恵がね…
坂野さんなんか どうご覧になりました?
やっぱり どうしても
何か社会を変えていくというか 何か…
ただ じゃあ…
なので 今 私 ちょうど 若手の育成で
脱炭素に向けて
どんなことができるかっていうことを
一緒に考えるようなプログラムを
しているんですけれども。
そこで すごく大事にしているのが…
やっぱり どうしても 若い世代は
若い世代の話だけしててとか
やっぱり どうしてもね 政治とか含めて
意思決定は年代が上でとかっていうのも
よろしくないかなっていうことも
そうですし
逆に こう この分野で
中だけで考えていても
考えつかないことが
ほかの分野の方たちと一緒に話をするとか
一緒に考える場を作るだけで
意外と新しいアイデアになったりも
するのかなということで。
そういう若い世代と
一緒に活動する時なんかには
示唆するのか 指示するのか。
使い分けは 確かにしていると思います。
自分の仕事で業務をする時とかは
確かに指示をする時もありますし。
やっぱり…
っていう使い分けは
大事だと思うんですけど 難しいです。
そうですね。
方向性を示す時に…
例えば 私たち 「ゼロ・ウェイスト」って
言ってるんですけど
「じゃあ ゴミを半分減らしましょう」って
結構できそうな気がするじゃないですか。
でも 「ゼロにしましょう」って言うと
ちょっと大変そうだなって思いますよね。
で 大変そうなんですけど
完全にゼロを目指すぞって
本当に考えると ちょっと…
で そうやって
ちょっとクリエイティブに
ふだんの積み上げ以上に
物事を考えるようになると
ゼロまではいかないけど
もしかしたら 意外と8割減った
みたいなことがあるかもしれないとか
っていう
そんなアプローチは大事かもなって
ちょっと 思っていますね。
なるほど。 大きくしておいて
これ 完璧に行けたらいいけども
ここまで行けたじゃん やった~!
ぐらいの感じで共有するみたいな。
その方が テンションも
上がりそうですもんね 何かね。
あと まあ 例えば
5年スパンでやることみたいなことと
じゃあ 何か 20年 30年後
どうしているかみたいなこととは
ちょっと 考え方を変えるみたいな
分け方もあるかもしれないですよね。
時間軸で考えてあげるのが
いいかもしれないですね。
多分 その一人一人に合った
プランというかが 多分あると思うので。
自分に合ったやつでやっていく
っていうのが
やっぱ いいんじゃないかなあと
思いますけどね。
さあ 今日はですね
「今こそ 弥生に学べ!」ということで
社会の大変革を乗り切るには
どうしたらいいのかというのを
弥生人の知恵からね ちょっと
見てきたわけなんですけれども
坂野さん どうでしょうかね
さまざまな問題を乗り越えて
社会を変えていく極意といいますか。
夢は大きく…
大きくジャンプして考えながら
とはいえ 一歩ずつ
着実に前進するみたいなことは
やっぱり大事かなと。
やっぱ チャレンジ 大事じゃないかなと
思いますね。
僕なんか 煮詰まったりとか
曲 作ってる時とか
例えば ちょっとジャジーな音楽を
ロックに すごい変えてみたりすると
すごい 曲が生まれ変わって
また いい曲になったりするので…
先生 いかがですか?
私はですね やっぱり 弥生というのは
そういう時間 空間の厚みとともにね
やっぱり そういう…
そういったものに基づくような…
…ということが
非常に 私は大事だと思いますね。
随分昔の時代のことのように
思えていたんですけれども
学ぶことがありますね。
そうですね。
今と つながってるんですね。
あっ ちょっと せっかくお出しした
古代米のおにぎりが
ちょっと もうすっかり
冷めてしまいましたけど
このあと みんなで頂きましょうかね。
そうですね。 いただきます。
今日は 本当に ありがとうございました。
ありがとうございます。
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