出典:EPGの番組情報
先人たちの底力 知恵泉「松平定信 未来の世代にツケをのこさないために」[解][字]
田沼意次失脚後、登場したのが松平定信。財政ひっ迫の中で推進した「寛政の改革」は、前時代の否定からはじまった!切り札としたのが公共性。その知恵の功罪を見つめる。
番組内容
天明の大飢きんを巡る失政が続く中、登場した松平定信。被災者に支援金を給付するなど公共性・社会福祉の視点で次々と政策を断行。未曽有の天災の影響で幕府財政がひっ迫する中で推進した「寛政の改革」は、仕事を失った人に現代でいう職業訓練の場を提供するなど当初は歓迎されたが…次第に人心は離れていった。カリスマ経営コンサルタントが仁の心で改革にあった定信の知恵を読み解く。大借金を克服した話題のタレントも初登場!
出演者
【出演】経営・マーケティングコンサルタント…神田昌典,ヒコロヒー,東京工業大学准教授…福留真紀,東京学芸大学名誉教授…大石学,早稲田大学ビジネススクール教授…入山章栄,【司会】新井秀和ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
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- 定信
- 改革
- 寛政
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- 自分
- 松平定信
- 町人
- 天明
- 無宿人
- ブランディング
- 気持
- 禁止
- 長持
解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
借金 借金 また借金。
いつの時代も
日本は お金で苦労していました。
どうぞどうぞ。 まずは駆けつけ一杯。
(ヒコロヒー)ありがとうございます。
これは日本酒ですか?
そうなんですよ。
あら ありがとうございます。
うれしい。 いただきます。
これ頂いていいんですか?
ええ。 あの…
あっ あんまり飲み過ぎるとあれなんで
あとで飲みましょうか。 あとで飲むの?
大人の事情で ちょっと
なかなか今 飲めないもんですからね。
分かりました。
すいません。 はい。
でも最近 大活躍ですよね。
いえいえいえ おかげさまで。
相当 もうかってるんじゃないですか?
まあ 正直 相当もうかってます。 はい。
まあ でもね ちょっと前まで
借金がすごくあったので
それを返済したり 何やりしてたので
別に そんな もうかってます
っていうほどではないんですよ。
借金 いくらでしたっけ?
もともとは250万ぐらい 抱えてまして。
全部?
そうですね 140ぐらい返して
あとはもう知人のみの借金となりました。
どうなんですか? その借金を
抱えてる時の気持ちっていうのは。
最初の10万ぐらいは
うわぁ ちょっと借金抱えちゃったな
という気持ちがあるんですけど
20万超えた辺りから
人って不思議なもので あと30万ある
っていうふうに思うんですよね。
分かりますか?
考え方が逆になるわけですね。 そう…。
何か 借金というより貯金のような
感覚になってまいりまして。
あと30万借りられる。
借りられる。 ある。
今ないだけで あるっていうふうにね。
ちょっとね 今日 ヒコロヒーさんに
その借金のお話伺ったのは
今日 スポットを当てる主人公がね
これ 江戸時代の老中 松平定信という。
実はね 定信の時代
幕府が赤字続きだったんですよ。
まあ 幕府の老中と比べるの
ちょっと あれかもしれないですけど
どうですか? 気持ち分かりますね。
分かります? 定信の気持ちは。
本当ですか!?
うん 苦しかった… 苦しいでしょうね。
群馬県と長野県にまたがる
名峰 浅間山が
天明3年
天を揺るがす大噴火を起こしました。
噴き上げられた火山灰は 空を覆い尽くし
東日本全域は大凶作。
壊滅的な打撃を受けました。
江戸時代 最悪の飢饉といわれる…
およそ5年間続き 死者は数十万とも
100万を超えたともいわれています。
国家存亡の危機といえる
未曽有の自然災害で 幕府の中も大混乱。
そのさなか 政治の表舞台に立ったのが…
当時の幕府は
飢饉に対し有効な手だてがなく
権威も信頼も失墜を極めていました。
その上 財政も火の車。
飢饉により年貢米が激減したことで
大幅な赤字に
陥っています。
山積する問題を前に
定信が切り札にしたのが…
一部の特権階級が
利益を享受するのではなく
全ての民に広く行き渡らせることこそ
この難局を打開できると考えていました。
「公共の福祉」を掲げ
改革を進めたリーダー 松平定信。
災害・天災に見舞われる今だからこそ
その政策を見つめます。
こんばんは マスター お久しぶり。
そして 今宵ご来店するのは…
経営コンサルタントとして
数々の企業の経営戦略に関わってきて
著作も多数。
人呼んで「日本一のマーケター」は
幕府の財政再建に挑んだ先人の知恵を
どう読み解くのでしょうか。
田さん 早速ですけど
やっぱり 組織の非常時といいますと
リーダーの手腕っていうのは
これ問われますよね。
特に 定信が この危機に対処したのは
20代の後半。
めっちゃ若いです。
だから今 20代が
日本の総理大臣に
なるようなものですよね。
なるほど なるほど。
ああ~。
この定信っていう人の性格ですよね
これって こう
どういうふうにお考えですか?
まず サラブレッド
っていうところですけれども
彼は 八代将軍 吉宗の孫なんですね。
あとは文化人っていうところですけど
彼は 和歌も詠むし
絵も描くし 書もやると。
非常に学識の豊かな人だった。
何か 今のお話聞いてると
もう何か 超エリートっていう。
文武両道で。
さあ ということで 今日は
難局に挑む定信にちなんだメニューを
ご用意いたしました。
こちらでございます。
あら。
いかがでしょうか? おいしそう。
実はね このメニュー
こんな名前が付いてるんですよ。
どどん。
「すもーく 長持ち
くんせいの改革」。
ちょっと… ちょっと無理がね
あるような感じがちょっと。
無理あります?
ちょっと ちょっとだけですけど。
ちょっとですよね ちょっとですよね。
すいません! もう。 いえいえ…。
そうなんです。
もうすごく長持ちの寛政の改革。
…をかけて スモークと燻製
ということですね。 なるほど。
あんまりちょっと
深掘りされちゃうとね ちょっとね
だんだん恥ずかしくなってきちゃうので
あれなんですけど。
定信の進めた政治といえばね
寛政の改革ですけれども
その時だけじゃなくって 後世にまで
大きな影響を与えたということで
すごく長持ちしたと。
うまくまとまったかどうかは
分かりませんけれども
早速 定信の知恵 味わっていきましょう。
天明7年 松平定信は
幕政を取りしきる老中の中でも
筆頭に列せられる老中首座に
任じられました。
「寛政の改革」の始まりです。
この時 定信が改革の成功を祈願し
奉納した願文が残っています。
「仁」とは 儒教において
最も大切とされる 五常の徳の一つ。
…を意味します。
寛政の改革に臨む定信が
政治方針ともいえる願文に
「仁」を記したのには
大きな理由がありました。
東北地方を中心に
死者は100万を超えたともいわれ
米の価格も高騰を極めます。
有効な救済策を打てない幕府や藩に
民衆は怒り
各地で打ちこわしが続きます。
大凶作で年貢米も激減し 幕府の財政も
危機的な状況に陥っていました。
年間 百万両の
不足が
見込まれるとの
記録も残っています。
もともと 定信は
飢饉の被害が大きかった地域の一つ
現在の福島県南部 白河藩の藩主でした。
飢饉の兆候を見るや 定信は
急ぎ 豪農や商人と交渉し
領内の困窮者に配るための
米や金を確保します。
これは飢饉の時に
定信より贈られた…
政策に協力した者に
名誉のしるしを与え 表彰しました。
先を見越した政治で 白河藩は この時
一人の死者も出さなかったと
いわれています。
その手腕が期待され
定信は 老中首座に抜てきされたのです。
ミッションは…
ははっ。
「仁の恵みが行き届き
世の中の立て直しが
成就しますように」。
寛政の改革が始まります。
…という言葉
ご存じでしょうか?
中国の古典を
由来とし
世の中を経め
民を済うという
意味を持ちます。
今日の
「経済」の語源です。
改革にあたり
「仁」の精神を第一に置いた定信は
まさに本来の意味に立ち返り
経済振興を図ろうとしたと言えます。
まず着手したのは
飢饉の被害を最も大きく被った
農村の立て直しでした。
天明の大飢饉によって
多数の死者が出たことで
農村人口は激減
人手不足で 田畑は荒廃する一方でした。
そこで定信は 農村復興の支援を行います。
困窮した農民に 生活を立て直す金や
小児養育金 現代で言えば 児童手当を
与えるための制度を設けました。
都市政策にも着手しています。
このころの江戸は 「無宿人」と呼ばれる
貧困にあえぐ人々が激増していました。
飢饉によって
食い詰めた地方の人々も多く
仕事と食料を追い求め
大都市 江戸に流れ着いてきました。
中には犯罪に手を染める者もおり
治安の悪化にも
つながっていたといいます。
取締りを強化しても
無理やり農村に連れ返しても
抜本的解決にはならない。
無宿人に
「仁」の恵みを行き渡らせる
よい方法はないものだろうか。
考え抜いた定信は 現在
高層マンションが立ち並ぶ 中央区佃
かつて 石川島と呼ばれた この地に
無宿人が寝泊まりできる施設
「人足寄場」をつくります。
当時の様子をうかがえるのが この絵図。
明治になって描かれたものですが
定信の時代と
さほど変わっていないとされています。
おや? 中にいる人たちが
何か作業をしていますね。
そう 人足寄場は
単に無宿人が身を寄せるためだけの
場所ではありませんでした。
「手業」。
すなわち 職業訓練を行っていたのです。
東京学芸大学 名誉教授の大石 学さんは
人足寄場に 貧困対策を巡る
定信の ある哲学を読み取ります。
人足寄場では 習得できる技術が
数多く用意されていました。
大工 蒔絵 左官 屋根ふき
ろうそく作り 紙すき…。
これらの中から「勝手次第」
つまり 学ぶ技術を
自由に選ぶことができました。
それぞれが自分の個性や能力に合った職を
見つけられるようにという配慮でした。
最大およそ200人が技術を身につけ
社会復帰を目指したといいます。
江戸の無宿人も 次第に減っていきました。
更に 定信は
農民や無宿人などの困窮者だけでなく
江戸の町人たちに対する政策も進めます。
「七分積金」と呼ばれる救済基金制度を
新たに整備します。
その財源は 江戸の町の「町入用」。
すなわち 町内会費でした。
万が一に備え
一部を積み立てさせたのです。
この金は 主に町人たちが自ら運用。
災害に備え 備蓄米に充てられたり
金に困った町人には
低金利で融資をしたりしました。
七分積金の真価が発揮されたのは
天明の大飢饉から およそ40年後の
天保年間。
大雨による洪水や冷害で
またもや凶作に見舞われた時でした。
江戸の町人には
積み立てていた七分積金を元手に…
延べ100万人以上の町人が
4年以上続いた飢饉から
命を長らえることができたといいます。
あらゆる人々が
少しでも将来に不安を抱かない社会。
いわば公のセーフティネットの思想を
もたらした 松平定信。
一方で定信は 幕府の支出を抑える
厳しい倹約も断行しています。
出すところには出す
節約できるところは節約する。
限りあるお金を
どうにか やりくりしながら
寛政の改革を進めます。
やがて幕府の財政は上向いていきました。
幕府の御金蔵には 後に
およそ107万両の貯蓄が
生まれたといいます。
江戸幕府 老中首座 松平定信。
大飢饉という大災害に手をこまねき
人心が離れていく中
「仁」の心で立て直した 江戸の政治家です。
ということでね ヒコロヒーさん
おっ 拍手してらっしゃいますね。
すばらしいですね。 すごい。
だから その寛政の改革自体も
長もちしたけれども…
僕は 本当 愛情深い人だったというふうに
思いますね。
とにかく…
あの「勝手次第」っていうのが
いいですよね…。
人と個性を大事にして
好きにして下さいって。
そうですよね 何か モチベーションアップ
にもなってますよね。
…っていうような理想っていうものが
あった人だと思いますね。
とにかく こうあるべき
こうするんだっていう力強さが
彼にはあったような気がします。
理想があったといっても
かなり意識高い感じがしますよね。
そうですね はい。
でも あの ここの知恵がですね…
ほうほう… ブランディング?
やっぱり非常に
定信は臆病だったと思うんです。
臆病だからこそ
自分がどう見えるかということに関して
相当考え
手を打ってきたと思うんですよね。
ですから 本当 若年の若者がですね
上に立つっていうことは
それだけ 自分に対して
どのように見えるかという
ブランディングをやっていかなければ
抑えられなかったっていう
事情もあるんじゃないかなと。
ブランディング自体は
ある意味 成功してるんじゃないかな
っていうふうに思うんですね。
「仁政」っていうキーワードで
語られることが多いですし…。
情け深い政治 仁政ですね。
そうですね。
で それは やっぱり
彼の政治のスタートのところに
打ちこわしがありますよね。
そうすると 民衆が蜂起したら
いかに恐ろしいかっていうことを
身にしみて彼は分かっていたので
民衆に対して どういうふうに
対応すべきかっていうところが
やっぱり
意識していたと思うんですね。
なるほどね。 ヒコロヒーさんの…
…っていうのも まあ 何ていうか
ブランディングなのかなとか。
ブランディングはブランディングでも
だいぶ…
え~っとですね もともとは 私が
借金でも 生活費ですね。
お笑いの仕事で
バイトする時間もなくて
これは まず いったん返さないと
ということで
ちょっと お笑い しばらく休みます
というふうに言おうと思ってたら
ずっとよくして頂いてたスタッフさんが
いや お前 お笑いを休むっていうのは
本末転倒やから絶対あかんということで
YouTubeチャンネルで それをもうやろう
というふうにして頂いて
YouTubeチャンネル 立ち上がりまして。
そこで もともとあった230万ぐらいの
借金を返すために借りよう
っていうことをしだしまして。
おはようございます。
あ 知ってました?
けど 麻貴ちゃんが1万って
おかしいですけどね やっぱり。
フフフ。
ほんまに来てるやん。
はい 返します。
ありがとうございます!
まあ 簡単に言ったら…
それで 最初のうちは そんなふうにして
やっていくうちに
お仕事もいろいろ頂けるようになって
自分の足でも立てるようになってという。
まあ でも 知らない人から借りるよりも
先輩芸人さんとか…。 そうですね。
その皆さんから借りるっていうふうに
切り替えたわけですよね。
切り替えました。
でもね 定信の場合は
お金もなかったわけじゃないですか。
赤字に苦しんでたっていう。
その辺をね 何か 根本的に
解消するようなことはやってたんですか?
彼の場合は倹約をするっていうのが
一つの大きな…。
で やっぱり
その代表的なものとして…
大奥って 将軍の
究極のプライベートじゃないですか。
そうなれば 下々にいたるまで…
…という ねらいも
あったのではないかというふうに。
恨まれそうですよね でも 大奥… ねえ。
もちろん恨まれます。
ちょっと怖そうですよね。
そう 大奥を。
何か 毒を盛られるんじゃないかという
うわさが流れたというような
エピソードも残っているようですよ。
へえ~。
やっぱり その 私らにばっかり
倹約を求めやがってっていうことで…。
そうですよね。
そうですか。
命懸けですね そうするとね。
確かに。 そうですよね。
経営コンサルタントの田さんとしては
そういうやり方 どうご覧になります?
よくなかったことが多いと思います。
あら!?
実際 初期 定信が老中になって
初期はよかったと思うんですね。
信頼を取り戻すというところ
飢えで死ぬっていう不安というものを
まず なくしていったっていうとこでは
よかったと思うんですけど
倹約し続けたら もう
それは不満が出てくるし
もういつまで
この倹約続くんでしょうかと
そういうところでまた 不安というものが
持たれてくると思いますね。
先が見えないっていうような
状況だったんですかね?
そうですね。 それで
夢を見るっていうところに関しては
必要以上に抑えつけてしまったのかなと
思いますけども。
さあ さまざまな政策によってね
結果的に その赤字を解消した
定信だったわけなんですけれども
先ほどから ちょっとお話もあるように
やがて行き詰まってしまう
ということなんですね。
定信が自身の半生をつづった自叙伝…
定信の理想の政治が
事細かにつづられ
寛政の改革に込めた
思いの全貌をうかがうことができる
貴重な歴史史料です。
しかし ある一人の人物に対して
強い調子で
批判の言葉が繰り返し記されています。
その男とは… 定信の前任者。
元老中の 田沼意次です。
意次は 「重商主義」ともいわれる
商業優先の
画期的な経済政策をとっていました。
日本全体の経済活動を活発にすることで
幕府の収入アップに
つなげようとしたのです。
米よりも商いを重視する。
従来の幕藩体制を支える考えから
政策を大転換した前任者のやり方に
保守的な定信は
反発があったのかもしれません。
定信の意次への攻撃は
文章だけにとどまりませんでした。
かつて 定信が敵視した
田沼意次が治める
相良城がありました。
ままというか?
そうですね はい。
意次の失脚後の天明8年。
相良城は 定信の命で壊されています。
当時は 改易や移封で城主が代わっても
城はまた別の大名が使うのが当たり前。
壊してしまうのは
極めて 極めて 異例でした。
なぜ ここまで
定信は意次に厳しい態度をとるのか。
その背景には2人の出自の違いがあったと
考えられています。
定信の祖父は
八代将軍 徳川吉宗。
養子となって 白河藩主に
なっていましたが
巡り合わせによっては
将軍になってもおかしくない…
かたや 意次は 一旗本の生まれ。
九代将軍 家重に気に入られたことで
異例の出世を果たし
老中にまで上り詰めた 叩き上げ。
封建時代では いわば異端の
意次の存在を認めることは
秩序の崩壊になりかねない。
エリートの定信は意次の存在をどうしても
認められなかったのかもしれません。
そんな生真面目で お堅い考え方は
せっかくうまくいっていた寛政の改革を
暗転させてしまうのです。
チームアプローチとは
医療の現場などで使われる言葉で
医師や看護師 作業療法士など
さまざまな特性を持つスタッフが
患者の治療・支援のために連携することを
表します。
定信も寛政の改革を進めるにあたり
多彩な個性を老中に就かせ
チームを作り上げました。
集まったのは 名門の譜代大名。
先祖には
三代将軍 家光に仕え
その機転により
「知恵伊豆」と称された
松平信綱がいます。
戦国時代 徳川四天王として
家康を支えた
本多忠勝の家系です。
出自をたどれば
徳川御三家の一つ
水戸徳川家に
つながっていました。
定信は 彼らを中国の故事から
「刎頸の交」と
表現しています。
成り上がり者では
なく
大権現 徳川家康を
支えてきた
先祖をルーツにする
仲間だからこそ
気心が分かり 改革に
まい進できると
考えたのかも
しれません。
定信の「チーム寛政の改革」は
先ほど紹介したように
「仁」の精神にあふれた
先進的な社会保障政策を進めています。
その一方で チームは民衆たちに対して
娯楽や ぜいたくなどを禁止する政策も
押しつけていました。
天明7年11月
料理茶屋や茶店を
規制したのを皮切りに…
寛政元年3月には
べっ甲のかんざしや くしなど
ぜいたく品の売買を禁止。
寛政3年正月
湯屋における男女混浴を禁止。
翌月2月には 箔押しのうちわや
たばこ入れの製造を禁止しています。
ぜいたく禁止という名目で
庶民の楽しみを奪う政策に
人心は離れていきます。
それでも チーム寛政の改革は
政策方針を変えません。
江戸が不景気になれば
農民が故郷に帰り
農村が復興して
江戸は再び繁栄する?
え~ ちょっとちょっと… 分かりません。
それでも…。
皆々は どう思われるか?
異存なし。
同じく。
本来のチームアプローチなら
それぞれの立場から議論するのに
定信らの「刎頸の交」による
チーム寛政の改革は
結局 偏った政策を進めてしまいました。
経営学者の入山章栄さんは
定信のチームは
現代の組織でも陥りがちな
ある失敗を犯しているといいます。
これね 人間には…
好む傾向というのがあるんですね。
でも そうすると…
そうすると何が起きるかというと…
ですから 逆に…
越中殿!
遅いではないか。 越中殿!
これをご覧なられよ。
これはまた ふらちな…。
定信チームは 自分たちの政策方針に
批判的な出版物や版元を
厳しく取り締まります。
寛政元年
作品の中で政治批判を行ったと
恋川春町
朋誠堂喜三二を弾圧。
江戸城内の刃傷沙汰を描き
風紀を乱したとして…
更に 外国からの脅威を唱え
軍備増強の必要性を説いた
林 子平に対しては…
「民衆に余計な情報を与えて
混乱させるべきではない」と…
実は 前任者の田沼意次は それとは真逆。
田沼は さまざまな人からの意見を
取り入れていました。
利用できると見るや
ブレーンに登用したり
資金を提供したり 活動をサポートしたり。
その中には
あの平賀源内もいました。
外交政策も正反対。
南下政策をとるロシアとの
関係について論じた
「赤蝦夷風説考」が
出版された時は
取り締まるどころか
ロシアとの玄関口となる 蝦夷
現在の北海道の開発に
乗り出したこともあったんです。
気の合う友達同士がいい時もありますが
発想の幅が狭まる危険もはらんでいます。
複眼的なチームアプローチが
少しでも機能していたら
寛政の改革の一方的な「理念の押しつけ」は
行われなかったかもしれません。
そうそう 窮屈で暮らしづらい
社会を招いた定信に対し詠まれたのが
この有名な狂歌。
定信の改革は
あまりにも潔癖すぎて住みづらい
濁った田んぼや
沼のような 意次の政治の方が
居心地がよかったなあ。
いや やっぱり その あれですよね
どうしても上流階級の出身やから
社会の実態っていうのが分からなくて
やっぱり そこら辺は 意次だとか
のような現実を知った上でやる政策と
やっぱりちょっと相反するものが
それはあるのかな
というふうに感じましたね。
VTRの中でもね 同じような人が
集まってしまったっていう
コメントなんかもね ありましたけれども。
信頼できる人が誰もいなかったんだと
思いますよ。
だから同じような人を集める。
はは~。
だから やっぱり
老中っていう枠だけで考えれば
あの集団は しょうがないんですけれども。
ただ それ以外に いかに…
そこができなかったというのが
問題になってくるというふうに思います。
でも最終的にはですね 定信 ちょっと…
ですから 先ほどご指摘されたような
やっぱり 誰も信じてなかったかも
っていうところは
もしかしたら あるかなというのは…。
そんな状態でね 本とかで
自分を風刺されるような皮肉とか見たら
もう あかんあかん あかんって
なりますよね。 それもう
メンタル メンタルってなりますよね。
そうですよね。
でも さっきの情報統制の中に
外国の情報を書いたことに対しても
問題視していますけれども
この時期にはもう 外国からの
アプローチっていうのが
起こってきている時代ですので
そうなった時に
そういう情報が
庶民の間に流れるということは
やはり 庶民の力で
何かが起こっては困るので
情報統制をしたかったという それは
定信なりに考えた結果なんですけど
でも結局は 江戸の不況に
つながっていくという感じに…。
そして ここの知恵がですね…
それができる状態であれば
よかったと思うんですね。
ただ そもそもの
老中の周りのシステム自体が
エリートを集めるということだったので
情報がしっかりと上がってくるシステム
その辺りの組織運営ノウハウも
実を言うと 定信は
もうちょっと年齢がいってれば
経験積めたのかな
なんていうふうに思います。
でも 田さん どうですかね
異なる人材ですとか
異なる意見を取り入れる
これ難しいなって思う人もいると
思うんですけれども。
多くの経営者を見ると…
え~!?
だから本当やってることは 実を言うと
あの 名大名 将軍 名将軍と
言われたことと
同じような習慣を
持ってらっしゃいますね。
腹立たないのかな。
ねえ。 ねえ だって 辛辣な意見とか
何やねん それってなるような意見も
きっと目にするわけじゃないですか。
あ それは…。
謙虚な気持ちで?
…って思うんですよ。
改善するポイントが明確になったと。
だから クレームって言わないで
ラッキーメールっていう。
ラッキーメール? すごいいい。
だから仕事だけではなく
組織人だからこそ組織を離れて
いろんな人と交わるっていう。
それがリーダーとして
もし定信がやってくれたら…。
でも連れ出す人がいなかったのかな
なんていうふうに思いますけどね。
いや~ そして先生 いろいろと話を
聞いてきましたけれども
寛政の改革 このあと どうなったのか
っていうところを
押さえておきたいんですけれども。
そうですね 寛政の改革自体は
…っていうか 松平定信自身は6年間で
その立場を去ることに
なってしまうんですけれども
一つ 特に大きい理由として
考えられるのは
将軍との関係がうまくいかなくなる
っていうところだと思うんですね。
それで 人心が離れていくとか
さまざまな理由が相まって
6年という寿命になってしまった
ということです。
ただ そのあとなんですが
彼の周辺にいたほかの老中たちですね
先ほど何人か名前が出ておりましたが
松平信明 彼が中心となって
その後も続いていきます。
彼らは 寛政の改革の
あのチームの一員でしたから
「寛政の遺老」という
言い方をされますけれども
彼らによって その後
まあ 20年くらいでしょうか
一応は続いていく
ということにはなりますね。
20年。 まさに
「すもーく長持ち」したわけですね。
どっちで?
どっちに寄せて言ってる? 今。
すも… すもー すごく… すごく。
むむ~って言ってます。
すごく長持ちしたって。 ねえ。
定信が
セーフティネットとして創設した…
町人たちによって蓄えられた この金は
幕府が倒れたあと 明治に入ると
東京府に引き継がれました。
その額…
この活用に関わったのが
明治新政府の役人だった…
渋沢たちは 積立金で
東京の道路や橋などの
インフラを整えます。
同時に 困窮者や障害者などの保護施設
「養育院」も積立金で設立。
運営費にも充てられています。
現在 高齢者医療やリハビリで
先進的な取り組みを行う
東京・板橋の
東京都健康長寿医療センターの前身です。
後に 養育院の院長に就任した渋沢は
江戸時代 いち早く社会的弱者に
手を差し伸べた定信に
畏敬の念を抱いていたといいます。
渋沢は 寛政の改革を始めるにあたり
定信が記した願文の写しを
自身の執務室に置き
座右の銘としていたといいます。
「仁」の精神で改革にあたった松平定信。
民の幸せとは何か 公共性とは何なのか。
歴史に一石を投じる政治家です。
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